今だけ淑女は忘れますわ。
大変お待たせしました。
よろしくお願いします。
バルドラン様がオオカミ達と対峙している間に、私はモスダーグにドレスを引っ張られ、その場から離れるためにヨロヨロと歩いております。
見た目も身体ももうボロボロでございます。
淑女以前に女性としてここまでボロボロはいかがなものかと………。
満身創痍を実体験中の今、何とかモスダーグについて歩いております。
あの、焼け落ちたお屋敷からそれほど離れていないと思っておりましたが、案外深く森の中へ進んでいたようです。
「のぉうわぁっ!」
何も無いのに躓いて地面に倒れてしまいました!
咄嗟に着いた両手に痛みが走ります。
「ああっ……もう……足に力が入りませんわ。」
地面に着いた両手両足がワナワナと震えて、まるで子鹿のようです。………例えが初々しいですが、状況は切実ですの。
令嬢としての建前なんて今の私にはまったく無用の長物。
自然に大きな溜息が出ます。
はしたなくも四つん這いで項垂れる私の顔に、モスダーグが湿った鼻を寄せて小さく声をあげます。
緩慢な動作で顔を上げると、真っ白だった毛が黒く汚れて所々赤く染まったモスダーグが、私を残して先を歩んで行ってしまいました。
「ーーモスダーグ。」
私、足手まとい?
鼻の奥がツンとして目に膜が張ると視界がぼやけます。
見た目もボロボロ。心もボロボロ。
上体を起こして地面に直に座り込みます。
ジワリと滲み出した涙が漏れ落ちないようにギュッと目を閉じます。
すると、悲鳴のような馬の嗎が先程まで居た辺りから聞こえてきました。
それに紛れるように僅かに聞こえてくる喧騒も。
きっと…そちらへ行けば人が居るはず。
でも、立ち上がろうにも身体に力が入りません。
手も足も震えが止まらず油断すると涙まで流れてしまいそうです。
ふと、閉じた目に浮かんだ強面のお顔。
太い眉毛に睨んでいるかのような一重の吊り上がった目。怖さを増長させる左頬と右側の額に引き攣るように走る剣の傷。
小さな子供は間違いなく絶叫します。大人でも見た途端、息を呑んで視線を彷徨わせます。
ですがそれは曾お爺様への間違った認識でしかありません。
お顔をくしゃっとさせて、いつも私を甘やかしてくださる、大きくて優しい曾お爺様。
「ひぃっ……ひぃ、おじぃ…さぁ…まぁっ。」
大好きな曾お爺様を声に出してしまえば、耐えていた涙が堰を切ったように溢れ出してしまいます。喉が締め付けられるようで、苦しくて息も上手くできません。
ドレスのポケットに手を入れて、しまってあったフリルをツラツラと出してそれで目を覆います。
まさかこんなフリルの活用法があるなんて。
思わずムフっと泣き笑いをすると同時にしゃくり上げてしまって、喉に痛みが走ります。
その痛みがまた悲しくて、止めどなく泣いておりましたら、こちらへ向かって地面を駆ける複数の足音が近付くのが聞こえてきました。
「ガブァレア令嬢!」
ゆるゆると顔を上げれば、地面を膝滑りして私の前にしゃがみ込む男性に顔を覗き込まれます。
「大丈夫ですか?怪我は?」
眉を寄せた濃い茶色の瞳が一心に見つめてきます。
「ふっ…うっく、ちょぉざっ、まぁ。」
声を出せばしゃくり上げてしまい上手く言葉にできません。
「よく……よく頑張られましたね。ガブァレア令嬢。」
ミューラック副長様が大きな手で私の頭を撫でてくださいます。
「閣下もこちらに向かっております。もう大丈夫ですよ。」
その言葉は今の私にとっては逆効果ですわ。更に涙が溢れてしまいます。
「ガブァレア令嬢?このまま私めが抱き上げてお連れしてもよろしいでしょうか?」
コクコクと頭を振ってミューラック副長様に両手を伸ばします。
「……手がこんなに……足も……靴は?靴は如何されたのですか?」
ミューラック副長様に抱き上げられてしがみ付くと、本当に本当にもう大丈夫なんだとようやく頭で理解した私は、人目も憚らず声を上げて泣いておりました。
「……怖かったですよね。こんなに震えて。」
そう言うと、ミューラック副長様が私の肩を優しく子供をあやすようにトントンと叩いてくださいます。それが更に私の涙腺を緩めますのに。
込み上げた感情はなかなかおさまらなくて、溢れるまま涙を流しておりました。
私が落ち着いた頃合いを見計らって、ミューラック副長様が躊躇うように聞いてこられます。
「……ところで、ガブァレア令嬢?ウチの小隊長見ませんでしたか?」
小隊長?
「無謀にも馬を駆って森に入って行ったのを他の者が見ておりましてね。」
ああ。バルドラン様のことですね。
声を出すとしゃくり上げてしまいますから、怠い腕を上げて私が来た方向を指し示します。
「あちらに?」
頷けばミューラック副長様が一緒に来られた方に声をかけられます。
「ケルン、誰か二人連れてこの奥にいる小隊長の所へ行ってくれ。」
ケルンと呼ばれた方が短く返事をして土を踏む音がいたしました。
でも、待って。バルドラン様は今………
「ミッ……らっぐざぁ……ぶぉっ…おおっ、がみ…がぁ」
きっとまだオオカミ達と対峙していらっしゃるはず。
出した声が掠れてしまって聞き辛かったと思ったのですが、ミューラック副長様はちゃんと私の言いたいことを理解してくれたようでございます。
「待て、ケルン。三人連れて行ってくれ。小隊長がオオカミ相手に遊んでいるようだ。可哀想に、さっさと馬をオオカミから離してやってくれ。小隊長の回収も忘れるな。また迷子になっては堪らんからな。それと、オオカミは森の奥へ追い立ててくれ。」
オオカミ相手に遊ぶ?
ふと、あのときのバルドラン様の姿を思い返せば、確かに楽しそうでしたわね。
私を抱き上げ歩き出すミューラック副長様のお顔を、目の下に当てたフリル越しに見れば、濃い茶色の瞳を細めて笑顔で返して下さいます。
「ガブァレア令嬢が無事で本当に良かった。そうでなければ私はラウラになんと言えばいいか…。」
ラウラは曾お爺様のお屋敷の使用人で、ミューラック副長様の奥様でございます。
私とは十も離れておりますがとても可愛い女性です。
私が曾お爺様のお屋敷に行ったときには必ずラウラが付いてくれるのですが、色々とやらかしてしまう私は、いつもラウラに怒られておりました。
「親父殿まで出張ってましてね。心配で、ジッとしていられないって。」
親父殿と言うのは、曾お爺様のお屋敷の庭師のバランのことですわ。
バランはラウラのお父様で、よくお庭でお花を一緒に植えたりしておりました。でもそれがいつのまにか泥遊びになってしまって、バランと私はラウラによく怒られておりましたの………なんだかラウラに怒られてばかりですわね。
「しかし、小隊長の嗅覚はすごいなぁ。最強方向音痴なのに、こうやってガブァレア令嬢を探し当てるんだから。あっ、でもただ単に運が良かったのかな?偶然?偶々?だったりして?」
ははははっと乾いた笑いのミューラック副長様に、凝り固まった心が柔らかくなっていくようです。
「……でも良かったぁ。ラウラの怒りを少しは回避できそうで。」
ボソッと呟いて握り拳を作るミューラック副長様に思わず苦笑いです。
「あーーーっ。これ、内緒でお願いしますね。」
締まりなく眉を下げるそのお顔で、普段ラウラとどういった力関係なのかわかってしまいますわねぇ。
目の下に当てていたフリルで口元を覆って、ガラガラの声で小さく笑います。
そして重く熱をもった瞼の目で前を見ますと、崩れた壁が木々の間から見えてまいりました。
それと共に激しく打ち合わせる剣の音と、少なくない人達の怒号が聞こえてきます。
焼け落ちたお屋敷に近づくほどそれは大きくなって、あの忌まわしい黒の服装の者達が剣を振るう姿が見えます。
と、
私の視線が一点で固まりました。
黒い服装の大きな人が振るう剣を、危なくもなんとか受け止める痩身の長く赤い髪の人。
「ガブァレア令嬢。このまま走りますからーーー」
ミューラック副長様の声が途中から掻き消えたのと同時に周りの音が消えておりました。
その赤い髪の人の姿が陽炎のように揺らめくと、少し背の低いもう一人の赤い髪の人が現れゆらゆらと視界を惑わせます。
揺れ方がたんだんと小さくなって、二人の姿がピッタリと合わさると、途端に私の心臓が大きく打ちなります。
そして、
私の目の前に広がる闇夜と荒れ狂う炎。
私の耳に届くのは勢いよく燃え盛る炎の音と打ち付ける剣と怒号。
私の鼻が嗅ぐのは焦げた臭いと血の臭い。
私は咄嗟に腕を突っぱねて、思いっきり身体を捻るとミューラック副長様の腕の中から飛び降ります。
足に上手く力が入らず、地面に膝を強かに打ってしまいましたが、何かに押されて前へ進もうとする力が痛みを上回ります。
『 逃げて!! 』『 森の中へ逃げて下さい ! ! 』
『 ローズ様!マール様!さぁ、お早く! ! 』
『ミュリネア様っ!何処にいらっしゃいますか !! 』
『 エルヴィーダ様はっ? ! 』
『 ディルヴァイス殿がお二人に付いておられるはずだっ! 』
炎で煌めく剣を振り乱舞する全身黒い服の人達。
私達を守っていた屋敷の使用人が崩れるように倒れてーー
「 『 ヴィーーーーーーーーッ !!』 」
力一杯腕を伸ばして、次にやってくる筈の場面を阻止したくて。
ああっ!でも、私の声に振り向こうとした赤い髪のその人に、容赦なく振り下ろされた剣。
後ろへと倒れる身体から吹き上がる鮮血と、乱れ散る赤い髪。
「 イヤァーーーーーーーーッ !」
強張る身体から血が引くように全身から力が抜けて、耳の内側でザァーッと音が響きます。
恐怖が私を黒く塗り潰してーーー
世界が暗転してーーー
「フィーーーーーーーーールッ ! ! 」
私を呼んだのは………誰………?
今回でマールの出番はまた暫くお休みです。
曾お爺様のターンとなります。その前に一つ回想を入れるつもりです。
沢山の方々が待って下さって読んで下さること、本当に有り難く思っております。
これからも超スローペースで頑張りますので宜しくお願いします。




