『べらぼう』における「ザマぁ」と「チート」
今回の『べらぼう』は、ちょっと胸に迫るシーンがあった。その一つは、蔦重が鱗屋の重版を知った後、西村屋と話し込んでいた時に、自分が鱗屋にもいいようにハメられていた事を知った後だ。思わず里美浩太朗のところに駆けこんで、鱗屋の悪事をバラしたくなる。…けど、やめる。
蔦重は何故、思いとどまったのか? 自分をハメてた相手だ、現在進行形で自分を利用しようとしている。そんな相手をやっつけるいいチャンスだ! …けど、言わない。蔦重は「告げ口なんて、なんか俺っぽくなくてよ」みたいな事言ってましたっけ。
これ、単純に考えると相手は悪いことしてるので、悪事を露見させる方が社会正義なわけです。ネット時代の今なら、じゃんじゃんやりたがる人がいるでしょう。自分が恨みを持つ相手ならなおさら、してやって「ザマぁ」と言いたくなるのではないでしょうか?
けど蔦重はしないんだね。なんでか? これはまあ人それぞれ考えるべき事だとは思うけど、僕の一つの考え方としては、蔦重は鱗屋の悪事を知った段階で、即、行動するという道もあったわけだ。無論、便所紙見てすぐに西村屋の話を聞いちゃうんで、タイムラグはほとんどないんだけど。
つまり社会の公正のためにすぐに動く、のなら迷わない道をあったかもしれない。けどあそこで西村屋の話を聞いちゃうと、個人的な意趣返しのために悪事を暴くことになっちゃうんだね。吉川英治の『宮本武蔵』で、「お前のそれは私憤にすぎない。もっと大きな公憤を持て」みたいに言われるシーンがある。私憤で動くのは、「ちっちゃい」し、「潔くない」感じがするわけだ。と、思う。
もう一つよかったのは、「うまくやるってのは……堪えるもんすね」と蔦重が鬼平に言うシーンだ。鱗屋が落ちて棚ぼたに上手くいきそう。けど、そうやって棚ぼたでチャンスを掴むのは、「堪える」と蔦重は言ってるのだ。
これはね、つまり「チート」は堪える、と言ってるのですよ。簡単に言うと蔦重という人は、ザマぁもチートも選ばない人だ、とここで示されてるのである。ただし――見方を変えると、テクスト的には蔦重はザマぁを実現し、チートでチャンスをものにしている。…さて、この作品をどう解釈しますかね?




