14話 旅立ち
二部のエピローグとなります。
夏も盛りの頃、クリフが冒険者ギルドへ送った手紙は思わぬ内容の返信をもたらした。
手紙の差出人はヘクターである。
その内容は非常にシンプルなもので、冒険者ギルドのマスターことエイブの死を伝え、クリフが復帰してギルドの運営を担って欲しいと言うものだ。
……まさか、マスターが死ぬとはな……
クリフはエイブの死に衝撃を受けた。
考えれば彼は54才であり、当時の平均寿命から考えれば決して短命では無い。
しかし、クリフはエイブに「必ず戻る」と約束しただけに、その知らせがもたらした衝撃は大きかった。
……くそっ、俺としたことが……
ハンナの容態は既に寛解に近いものであり、帰ろうと思えば帰れたのだ。
しかし、クロフト村の居心地のよさに甘え、離れることができなかったのは己の弱さであるとクリフは自らを責めた。
「そう……マスターが……」
「そんな! また会おうって約束したのに!」
クリフがハンナとエリーにもエイブの死を伝えると、2人も大いに嘆き悲しんだ。
エリーなどはポロポロと涙を流して死を悼んでいる。
「ハンナ、エリー、俺はファロンに帰らねばならない……エリーの結婚式には戻る。」
クリフは旅立ちを決意した。
クロフト村での生活はクリフにとって素晴らしいものであった。
しかし、冒険者である以上、約束を違えることは許されない。一方的な契約破棄は冒険者の最も忌むところである。
「クリフ、私も行くわ。」
「なら、私も……」
ハンナとエリーも付いていくと申し出るが、これは意外にもハンナが厳しい顔をした。
「駄目よ、あなたは婚儀が控える身でしょう?」
「でも、私もマスターの小父さんには……」
ハンナはぎゅっとエリーを抱きしめた。
エリーの背は伸び、いつの間にかハンナに追い付きそうな程だ。
「エリー、あなたはトビーくんのために生きなさい。私はクリフのために生きる……お別れの時が来たの。」
お別れとは大袈裟に思うかもしれないが、通信や移動手段の発達していない時代の「旅立ち」とは「生き別れ 」とほぼ同義だ。
事実、クリフとエイブは旅立ちが今生の別れとなった。
「エリー、今までありがとう。エリーのお陰で……俺は……」
クリフはエリーに声を掛けるが、息がつまり上手く話せない。涙が視界を霞ませ、エリーの顔も良く見えない。
何故か、年を取ると涙腺は脆くなるものだ。
血も涙もないと噂された賞金稼ぎも変われば変わるものである。
「泣かないで、クリフ。ね? エリー、クリフには私が必要なの。トビーくんもきっとそうよ。」
「お母さん、お父さん……」
エリーもポロポロと泣き出した。見ればハンナも泣いている。
「エリー、幸せになってくれ。」
「うん、幸せになるわ……ありがと、お父さん。」
クリフもエリーを抱きしめた。
次に会うときはこの娘は人に嫁ぐのだ……もう2度と抱き締める機会は無いだろう。
「ありがとうお父さん、私を守ってくれて……ずっと、私……お父さんのことが好きだった。」
この言葉を聞いて、クリフは何かを言わねばと思うのだが、込み上げてくる涙と嗚咽が邪魔をして何も言えなくなってしまった。
「ありがとうお母さん、私を育ててくれて……私は幸せだった。」
ハンナが抱き合う父娘ごとまとめて抱きついた。
「ごめんね……情けないお母さんで……」
「ううん、お母さんと一緒にいたときはいつも楽しかった……ありがとう、お母さん。」
エリーの言葉にハンナが「うわーん」と子供のように泣き出した。
この後、しばらく別れを惜しみ、3人の親子は泣き合った。
家族との別れは辛いものである。
この場で別れを済ませていたので、後にエリーの結婚式で大泣きせずに済んだのはクリフにとって幸いではあったろう。
少しだけ未来の話をすると、エリーはトバイアスとの間に3男5女もの子を設ける。その内の2人が早世してしまうが、見事に6人を成人させクロフト家を内側からよく纏めた。
エリーは偉大な父とトバイアスをよく比較し「お父さんならこんなことはしなかった」とトバイアスをよく責めたようだが、8人も子を成すほどに夫婦仲は円満であったらしい。
………………
その後、クリフはヒースコートに事情を説明し、クロフト村から去ることを伝えた。
「叔父上、長らくお世話になりました。」
「いや、世話になったのはこちらだ。できればクリフ殿にはこれからもトバイアス殿を助けて貰いたかったが……」
ヒースコートが名残惜しそうに未練を口にした。
「そうですよ、そんな急に……」
アビゲイルも目頭を押さえ、悲しげな様子を見せる。
「叔父上、叔母上、お世話になりました。私の為に迷惑を掛けてごめんなさい。」
ハンナが素直に頭を下げた。
「迷惑なんてそんな、私たちは家族ではないですか。」
アビゲイルが即座に否定する。彼女は正しくハンナやエリーの母がわりとして接していたであろう。
ひょっとしたらクリフも息子のように思っていたかもしれない。
「ううん、私がおかしくなって皆に迷惑をかけたのは分かってるの。ありがとう、叔母上。」
今回のことでハンナは少し大人になったようだ。
この言葉にヒースコートが「うっ」と泣き出した。彼の中ではハンナは幼い日のままであり、ハンナの成長に感動したのだろう。
ヒースコートはハンナを溺愛していたが、彼女はクリフに出会う前はとんでも無いじゃじゃ馬であり、数年前に帰ってきてからは鬱病で臥せっていた……いつも心配をかけさせられた、手の掛かる可愛い姪であった。
「でもね、クロフト村は……公爵領はクリフにとって狭すぎるもの。私のせいでクリフをいつまでも檻に入れとけないわ。」
このハンナの言葉を聞いてクリフは思わず苦笑してしまう。
……なんだそりゃ? ハンナにとって俺はどんな人間なんだ?
クリフは思わず周囲の顔色を窺ってしまうが、意外やヒースコートもアビゲイルも、エリーでさえも感動しているらしい。
『公爵領は狭すぎる』
この言葉は何故か人伝に広まり、何故かクリフ本人のセリフとされ、クリフの気宇の壮大さを現すエピソードとなる。
お話の中で猟犬クリフは仕官を薦めるアルバートやヒースコートに向かいこのセリフを言った後、颯爽と剣姫ハンナと共に新たな冒険に旅立つのだ。
これは「猟犬クリフ」の中でも屈指の名シーンと言われ、あたかも史実かのように扱われることになるが、現実はこんなものである。
この日の夕飯はアビゲイルの心遣いでいつも通りの質素な食事となった。
「また、帰ってくるのだから特別なことはしませんよ。」
アビゲイルのこの言葉にクリフは感動した。
故郷を失った風来坊の自分をこれ程までに受け入れてくれた家庭は無い。
この瞬間よりクリフにとってクロフト村は「いつか帰るべき心の故郷」となったと言えるだろう。
………………
翌日にはクリフたちは荷物を纏め、出立する。
3年半も生活した家であり、それなりに私物も残っているがクリフは「また帰ってきます」と言い、わざと片付けなかった。
これにエリーとアビゲイルが大喜びをしたのは言うまでもない。
「む、ちょっとクリフと叔母上って怪しくない?」
ハンナがクリフとアビゲイルを見て「むむっ」と口をへの字に曲げた。
「え? だって、お父さんと小母さんって同い年だし、割りと仲良しだよ?」
エリーが「今ごろ何言ってんだ」と言う風情で少し呆れた顔を見せた。
このエリーの言葉にクリフは少しドキリとする……疚しいことは何も無いが、娘に心の浮気を見つかった気分になったのである。
ハンナは「知らなかった」と驚愕の体を見せる。
クリフとアビゲイルも人前で妄りに親しげに話したりはせぬし、鬱病で苦しんでいたハンナが気がつかなかったのは無理はない。
「ダメよっ! いくらなんでも叔母上はダメ!」
慌てたハンナがクリフとアビゲイルの間に割って入る。
これには皆が苦笑するしかない。
いくらなんでもこの状況でクリフが間男をする筈が無いではないか。
ハンナは27才にもなるのに少女のような悋気を焼く。
唇を尖らせ、拗ねた様な表情でアビゲイルとクリフを睨む。
「あら、残念だわ。ハンナさんにお許しが貰えたらクリフさんと仲良くしたかったのに。」
アビゲイルが茶目っ気を出して「ほほほ」と上品に笑う。
こんな時、クリフは何と言って良いのか分からず黙っているしかない。
「うむ、そういう話は……せめて私のいないところでしたまえよ。」
ヒースコートがぽつりと呟くと、皆が「どっ」と笑った。
……うん、良いな……こんな風に笑って旅に出れるのは。
しみじみとクリフは幸せを感じ、なんとも言えない切なさに胸を締め付けられた。
クリフにとって旅とは決して楽しいものでは無かった。
若い頃の賞金稼ぎの旅は命のやり取りであり、毎日が苦痛であった。
若い頃は孤独でも堪えられた。
しかし、長くストレスに晒され続けたクリフの精神は磨耗し、疲れ果て、早く楽になりたい、休みたいと考えながら旅を続けるようになっていった。
いつからか、強い酒ばかりを飲むようになっていた。
賞金稼ぎとして名が売れれば売れるほどに恨みを買い、命を狙われたことも何度もあった。
いつしか、彼は誰も信用せず、疑いの目でしか他人を見ることができなくなった。
そんなクリフの生活はハンナと出会い、エリーと暮らすようになり変わっていく。
彼女らが向ける自分への無条件の好意は、クリフのありかたを少しずつ変えていったのだ。
人の心は不思議なもので、冷たい風に晒されれば氷のように鋭く、硬くなり、暖かなものに触れれば円やかな水となる。
クリフもいつの間にか、本当にいつの間にか角がとれ、人格に丸みを帯びてきた。
ハンナが流産し、悲しみの中でもクリフは孤独では無かった。
エリーが、バーニーが、アビゲイルが、ヒースコートがそこにはいた。
そして、クロフト村で生活するうちに新しい縁が生まれ、エリーが嫁ぐ。
……俺の人生、まあまあだ。
隣を見ればハンナがいる、彼女もクリフの視線に気付き、にこりと笑う。
ハンナの笑顔は華やかであり、クリフにはそれだけで周りが少し明るくなったように感じるのだ。
クリフは「ふ」と薄く笑って、皆に声を掛けた。
「行こう。」
クリフはハンナと、3人の従者たちと歩き出した
「またね!」
ハンナが振り返り、大きく手を振って笑う。
今日は暑くなりそうだ。
日が高くなる前に距離を稼がねばならないだろう。
………………
クリフはジンデル公爵領に滞在したのはハンナの療養のためであり、彼が何かを成した訳ではない。
精々がアルバート派で奮闘するヒースコートを助けたのみで、表舞台では一切活躍をしなかった。
ジンデル公爵家の公式記録でも、公子時代のアルバートと謁見したこと、それにアルバートの三男トバイアスと娘のエリーが結婚した2点が記されているのみである。
しかし、猟犬クリフが内乱の1年前から滞在し、終結後に去ったという事実は多くの者の想像力を刺激することとなり、様々な「物語」が作られていく。
アルバートの側で軍師として采配を振るうものや、ハンナと共にアルバート軍の将軍として軍を率いるものもある。
中にはダリウス軍を率いる黒騎士リンフォードと激突する不思議な話まで作られたほどだ。
何しろ記録が何も無いのだ、作りたい放題なのである。
そして、1つの「定型」が生まれる。
アルバートの軍師となったヒースコートの手足として、猟犬クリフ、剣姫ハンナ、荒鷲のハンク、ジンデルの黄斑トバイアスが活躍する形である。
そして戦いの中で恋に落ちたトバイアスとエリーの愛の物語までも含めるのが「お約束」だ。
ハンクは「荒鷲のハンク」などと勇ましい異名までも着けて貰ったほどで、この辺の現実との解離はクリフと似ている。
ジンデル公爵領を去るところでクリフの物語も一区切りとなる。
しかし、クリフの人生は続く。
彼はまだ36才、働き盛りなのだ。




