閑話 運命の君 上
トバイアス・ジンデル視点です。
エリーの本名はアリス・チェンバレン……誰も覚えていないと思ったので一応。
公子アルバートの三男、トバイアスはどこか屈折した所のある少年だった。
彼と妹のクラウディアは第2夫人の子であり、正妻の子である長男ファビウスと次男アマデウスとは明確な区別をつけ育てられた。
差別では無く、区別である。
長男は嫡子として家督を継ぐ為に、次男は長男に何かあった時のスペアとして君主としての教育を受けた。
そして三男は騎士としての……すなわち家臣としての教育を受けた。
不幸なことに、彼には優れた知能と肉体と感性が具わっていた。
「優れた騎士になれますよ」
悪意の無い褒め言葉が彼を苦しめた。
優れた騎士とは、役に立つ家来という意味である。
彼の優れた感性が、自分が本質的に必要とされていないことに気がついた。
分別がつく年頃には妾腹の三男なぞ「いらない子」なのだと理解した。
彼はお家騒動の種になりかねない「余計な」存在なのだ。
兄たちは優しく、妹も良くなついている。
トバイアスも兄たちにも父にも思うところはない。
この区別は当たり前の事だからだ。
だが、家庭内での明確な区別が……両親も、兄妹も、教師も、友人も、使用人でさえ、彼を苦しめる。
世の中には彼の努力や才能ではどうしようもないことが多すぎた。
……どうせ、俺なんか。
いつしか彼は全てに対して斜に構え、努力を忘れた。
しかし、不幸なことに努力をせずとも、優れた資質を持つ彼は落第生にすらなれなかったのである。
大人たちは「なぜ努力しない」「やればできる」と彼を励まし、その度に彼は頑なになっていった。
何となく憂鬱で、灰色の毎日……これが彼の13才であった。
………………
「トビー兄様、今日の晩餐会の話は聞いた?」
「また晩餐会か……面倒臭いなあ。」
妹のクラウディアが嬉しげにトバイアスに話し掛ける。彼女は11才、金色の髪を腰まで垂らしたお姫様である。
トビーとはトバイアスの愛称だ。ちなみにクラウディアはディディとなる。
年の近い彼らは仲が良く、愛称で呼び合うのだ。
最近は父のアルバートが、叔父のダリウスと家督を争い、その関係で会食が多い。
トバイアスは大人の付き合いにうんざりしていたのだ。
「でもね、今日のお客様は『あの』猟犬クリフなんですって! 楽しみだわ!」
「えっ? 『あの』猟犬クリフなのか?」
この兄妹は観劇を好み、当然のように猟犬クリフの物語は知っている。
猟犬クリフと言えば、ここ数年で爆発的に流行した物語で活躍する主人公だ。
様々な冒険譚や武勇伝、そして恋の物語に彩られた英雄である。
「猟犬クリフって本当にいたんだな……」
「ね! 楽しみでしょう? 今はお父様とお会いだそうよ。」
クラウディアが得意気に顎を上げた。このニュースを兄に知らせたのが誇らしいらしい。
「ありがとうディディ。晩餐会が楽しみなんて初めてだ。」
……猟犬クリフ、冒険者であり名門貴族か……辻の決闘や黒騎士リンフォードとの一騎討ち……さすがに1つ目の巨人を倒したのは無いと思うけど……
トバイアスは猟犬クリフの物語を思い出していく。
ちなみにかつてクリフが捕らえた賞金首の「騎士崩れのリンフォード」は「黒騎士リンフォード」として脚色され、猟犬クリフの最大のライバルとして何度も激突し、壮絶な一騎討ちを繰り広げたことになっている。
「うふっ、姫剣士ハンナ・クロフトも来るのかしら?」
クラウディアが嬉しげに歯を見せて笑った。
…………
……あれが、猟犬クリフ……もっと大男かと思ってた。
トバイアスは猟犬クリフこと、クリフォード・チェンバレンを観察していた。
噂通りの黒い髪とアンバーの瞳を持つ壮年の男。
その武勇伝からトバイアスは勝手に大男を想像していたが、身長は人並みである。
……やっぱり凄いな、迫力がある。
トバイアスはクリフの身のこなしや、雰囲気から威圧感を感じた……これは冒険者で言うところの貫禄と言うものである。
……あれは娘かな? さすがにハンナ・クロフトじゃないだろう。
トバイアスは、父と母たちに挨拶をするクリフの後ろに少女の姿を見つけた。
さらさらとした茶色い髪と大きな目の可愛いらしい少女である。
少女もこちらに気がつき、目と目が合った。
その瞬間、トバイアスは脳天から爪先まで至る強い衝撃を感じた。
自分の顔が上気し、指先が緊張で震えた。
少女がこちらに会釈し、視線が離れる。
……なんて、なんて、可愛いんだ! この娘と結婚したい!
僅か2秒ほどでトバイアスの思考は何段も飛躍し、少女と結婚する自分を夢想した。
一目惚れをしたのである。
顔の好みだとか、話題が合うとかそう言う話ではない。もっと本能的な、遺伝子的な衝動に駆られ、彼の心臓はペースを早めた。
それからは正直あまり覚えていない。
猟犬クリフの話も聞きたかったが、目の前の可憐な少女から目が離せなかったのだ。
彼女の名前はアリス・チェンバレン、猟犬クリフの娘だ。
トバイアスは必死で平静を装いながら彼女に話し掛け、なんとか2日後に会う約束を取り付けた。
……断られなくて良かった。お茶会とは良い口実だ。
たまたま貴族の子弟が集まるお茶会があったのは僥倖であった。
貴族の子は幼い頃より社交に慣れる必要があり、それを学ぶ場として公爵家は簡単な昼餐会やお茶会を開催するのだ。
貴族社会は強烈なコネ社会である。公爵家の子供は幼い頃よりこうして知己を集めるのだ。
晩餐会も終わりを迎え、猟犬クリフとアリス・チェンバレンは彼の両親と挨拶を交わしている。
彼は使用人の目を盗み、彼女の使ったケーキスプーンをそっとポケットに仕舞い込んだ。
…………
晩餐会が終わると、クラウディアがニタニタ笑いながら近づいてきた。
「いひ、兄様よかったね。」
「何がだよ。」
トバイアスはわざとぶっきらぼうを装いながら答えた。
「可愛い娘じゃないか、お目が高いな。」
反対側から次兄のアマデウスが肘でつついてくる。
アマデウスは良く言えばおおらかな性格をしていてトバイアスの面倒も良く見てくれる。
「兄上までやめろよ、そんなんじゃ無い。」
「嘘! トビー兄様があんな風になるの初めて見たわ! 一目惚れなんて素敵じゃない! 運命の出逢いだわ!」
クラウディアは年相応に恋に憧れているのだ。一目惚れや運命の出逢いなどは大好物であろう。
……一目惚れ? これが?
トバイアスは自分の心臓がどうしようもなく加速するのを感じる。
彼はこれが初恋であった。
「そんなんじゃないけど、ただ……その、話が聞きたかったんだよ。」
「そんな態度はいかんな、トバイアス……彼女は情熱を求めているぞ。大体だな……」
アマデウスが何やら講釈を始めたがトバイアスは半ば無視をした。
「もう夜も遅い、あまり騒ぐなよ。」
長兄のファビウスが3人に声を掛けて部屋から立ち去る。
ファビウスは21才で妻子がすでにいるが、義姉は産後のためにこの場には同席していない。
年が離れていることもあり、あまりトバイアスやクラウディアとは親しくしないが、仲が悪い訳ではない。
長兄の一言でなんとなくお開きとなり兄妹は解散した。
晩餐会のホストである父と母たちは猟犬クリフを見送りに行き、すでにこの場にはいない。
…………
部屋に戻り、トバイアスはアリス・チェンバレンが使ったスプーンを眺める。
口に含んでみたい衝動にも駆られたが、それは何となく彼女を汚す行いのような気がしてクルクルと掌で玩ぶ。
……アリス・チェンバレン、か……素敵な名前だ。
夜も更け、ベッドに潜り込んだ彼は無理矢理に眠ろうとしたが、妙に目が冴えてしまう。
ごそごそと落ち着かぬ股間をまさぐると、感じたことの無い感覚を味わい、ドロリと何かが出た。
彼は精通したのである。




