いざ、門外へ!(2)
「イブさま……なぜ……わたしを……おみすてに……」
その女のようなモノに釘付けになったタカトの目は、先ほどから小刻みに震えていた。
体の細胞が危険を感じ、頭では「逃げろ」と分かっているのに、体はまるで動かない。
尻もちをついて動けなくなったタカトのズボンは、漏れ出た小便で濡れていく。
「がぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
女のようなモノが吠えた。真紅に染まった目が大きく見開かれる。
――荒神っ!
タカトの心臓がバクバクと鳴り、呼吸は浅く速まる。
震える手が地面を掴み、体は固まったままだ。
「だれかぁぁぁぁ! 私をたすけてよぉぉぉぉ! おねがいだからぁぁぁぁ! 死ぬのはいやぁぁァァ! 消えるのはいやぁぁァァ!」
荒神の叫びは悲痛な金切り声。
大粒の涙をたたえた赤い瞳が、腰の抜けたタカトをじっと睨む。
「ねぇ……私の苛立ち……あなたにわかる? ねぇ……」
荒神の声は尖り、けれどどこか切実だった。
タカトは小刻みに首を振る。
言葉にならない恐怖に押しつぶされそうだ。
「わかるはずないわよねぇ…… 」
荒神の叫びが一瞬静まる。
「イブのくそアマに生気だけ吸われた、私のこの気持ちがァァァァ!」
荒神はタカトに迫る。
「あんたも一緒に死になさいよぉぉ!
私と一緒に消えなさいよぉぉぉ!」
大きく振り上げた手が、ゆっくりと振り下ろされる――。
ワン!
その時、崖の上から小さな塊が荒神の女の顔めがけて飛んできた。
それはタカトがエサをやっていた子犬だった。
子犬は必死にタカトを救おうと飛び込み、荒神の鼻に噛みついた。
顔に引っついた子犬を引きはがそうと、荒神はとっさに前足を掴んだ。
そして力任せに地面へ叩きつける。
「キャイン!」
子犬の悲鳴が響き、その前足はいびつな方向に折れていた。
「このくそ犬がァァァァ!」
荒神は子犬の腹を思いきり蹴り上げた。
高く宙を舞う子犬の体は、川の流れにぽちゃんと落ちる。
まるで木の葉のように、どんどんと流されていった。
「ワンちゃん!」
タカトはとっさに川へ飛び込もうとした。
だが、宙に浮いた身体はそれ以上、前へと動かない。
手足をバタバタと動かすが、一向に川へたどり着けない。
「逃がさないわよ……ボク……」
そう、タカトは今、荒神に襟首をつかまれていたのだ。
――ひぃぃいぃぃ! 誰か助けてぇ!
その時である。
ズバァァァァン!
一振りの剣が荒神の腹を薙ぎ払う音が響いた。
「ぎゃぁぁぁぁぁあ!」
悲鳴を上げる荒神は、掴んでいたタカトを放り投げた。
転がるタカトの頭上には、剣を真横に構える青年の姿があった。
――カッ……カッコいい……
そう、この青年は、タカトの家に訪ねてきて、父から剣舞を教わっていたあの青年だ。
だが、その足はブルブルと震え、顔は今にも泣きだしそうだった。
――やっぱ……カッコわるい……
「そのまま続けろ! 神祓いの舞を!」
崖の上からは、厳しい表情の父・正行が見下ろしていた。
澄んだ鈴の音が、辺りにチリーンと響く。
その横では、母・ナヅナが優しく鈴を鳴らしながら、歌を紡ぎ始めた。
意を決した青年はくるりと体を回す。
剣を振り抜き、荒神の体を切りつけた。
まるで剣舞のように、次々と斬撃が繰り出される。
そのたびに、荒神の体から赤黒い生気がはじけ飛び、少しずつ、確実に気を削っていった。
荒神の女は泣き叫ぶ!
「早くして! 早く! 荒神の気を払ってぇぇぇぇ!」
必死に振られる剣だったが、なかなか荒神の気を払いきれない。
どうも歌と剣の呼吸が合っていないのだ。
いや、メロディと動きは合っている。
おそらく、あの青年は必死に練習をしたのだろう。
だが、それでも波長、呼吸が合っていなかった。
ナヅナの歌は正行のためのもの。
この青年のためのものではなかったのだ。
そんな時、森の中から美しい歌声が聞こえてきた。
「おそいぞ! ビン子!」
「ごめん! イブってのに会ってた!」
茂みの中から駆け出してきた少女に、青年は偉そうに命令する。
「そんなことは今はどうでもいいんだ! 一気に払うぞ!」
「ウン!」
そこからの舞は美しかった……
父とは違い、まだ粗削りだったが、どこか優しくて温かい気持ちになる舞だった。
それを見つめる小さなタカトの目には、自然と涙があふれていた。
荒神の気が消え去るとともに、神は元の姿へと戻った。
だが、その姿はどんどんと薄れていく。
それでも優しい笑顔を浮かべたまま、神はゆっくりと空へと消えていった。
「ありがとう……私を救ってくれて……」
その様子を見つめる小さなタカトは、正行に尋ねた。
「あの荒神はどうなったの?」
「ああ、元の神様に戻ったんだよ」
「でも……消えちゃったよ……死んじゃったの?」
「いや、ちょっとお休みしているだけさ。また生気が宿れば、この世界に戻ってくるんだ」
「今度は、優しい神様に会えるかな?」
「ああ、きっと会えるよ。きっと……」
正行は小さなタカトの頭に優しく手を置き、消え去った神の姿を追うように空を見上げた。
第一の騎士の門の前で空を見上げるタカトは、ふと思い出していた。
――確かあの後、あの兄ちゃんたちと一緒に、流された子犬を探しに行ったんだったっけ……
だが、川をどれだけ下っても、子犬の姿は見つからなかった。
どこかの岸に流れ着き、森の奥へと入ってしまったのかもしれない。
そうだとすれば、生きているということだ……ならば、それで良かったじゃないか……
泣きじゃくる自分の頭を、兄ちゃんが優しく撫でてくれたことが、まるで昨日のことのように思える。
――でも、あの子犬……今頃どうしているんだろうな……元気にしているのかな……
って、もう11年も経っているんだぞ!
子犬のままなわけないだろ!




