黒の魔装騎兵と赤の魔装騎兵(4)
――あんな女、いくらでも代わりはいる!
ベッツは森の中を必死に駆けていた。
――いいか、街さえ出れば――!
守備隊が動く、魔物の一匹くらい瞬殺だ。
なにせ、自分は“神民”だ。
神民、それは騎士の力の源。
いわんや、この国で最も優先されるべき尊き存在。
自分を犠牲にするなど、あってはならないことなのだ。
だが、背後から――
「ぎゃあああっ!」
ひとり、仲間の少年が悲鳴を上げた。
続いて、またひとり……
さらに、またひとり……
それは明らかに、こちらに向かって近づいてくる。
悲鳴の波が、刻一刻と自分に迫ってくる。
――ヤバイ! ヤバイ、ヤバイ、ヤバイッ!
息が乱れ、脇腹が引きつる。それでも足を止められない。
後ろを振り返る余裕など、どこにもなかった。
ついに、ベッツを含めた数人が森を抜け、陽の差す開けた道へと飛び出した。
その瞬間、光に包まれた少女の頬に安堵と歓喜の色が浮かぶ。
――助かった……!
少女の目頭が光を反射して潤む。だが――
その身体が、地面に崩れ落ちた。
むき出しとなった背中の白いやわ肌が赤くただれて流れ落ち、中から白い別物べつものを浮うかび上がらせていた。
肉の奥から湧き出したそれは、もはや人の肌とは呼べやしない……
どうやら逃走劇の終幕とともに、少女の人生の幕も降りたようである。
いまや、うつ伏せに倒れる少女の下には赤黒い血だまりが広がっていた。
騒ぎを聞きつけ、道行く人々が次々と足を止めた。
「何があったんだ?」
「事故か、それとも喧嘩か?」
ひそひそと交わされる声。どこか面白半分な視線が集まっていく。
朝を迎え、店じまいしたばかりの飲み屋や風俗店の奥からも、眠たげな顔の女たちがのぞき見る。
まぶしそうに目を細めながらも、その視線は自然と道の中央に注がれていた。
……そこには、倒れ伏した一人の少女の姿。
その白い肌と赤く染まった地面は、夜の名残を引きずる町の喧騒に異質な静けさを与えていた。
通行人たちは皆、言葉を失いながらも目を逸らすことができない。
無惨に咲いた赤い“花”は、興味と不安と、わずかな快楽を同時に刺激していた。
それは、ただの通行人であっても……もうこの朝を忘れられなくなるような、そんな光景だった。
「ベッツさん……いったい、何があったんですかい?」
街の男たちが、どこか腫れ物に触るような口調で声をかけた。
ベッツの家は街でも名の通った商家――下手な関わり方をして、あとで父親に文句でも言われたら面倒事になるのは目に見えている。
だが、返ってきたのは返答というより叫びに近かった。
「魔物だ! 魔物が出たんだよ! は、早く守備隊を呼んでこい!」
顔をくしゃくしゃにし、涙と鼻水を垂らしながら喚くベッツ。
けれど、焦りと恐怖で声が震えすぎており、まともに聞き取ることは難しい。
人々は顔を見合わせながらも、ただならぬ様子に事態の深刻さを徐々に察しはじめていた。
そんなベッツのすぐ横で、同じように震えていた少年が突然、絶叫した。
「ベッツ! たすけてくれぇぇぇえっ!」
見ると、森の茂みから伸びてきた一本の白い糸が、少年の足首に巻きついていたのだ。
それはまるで生き物のようにうごめき、次の瞬間にはギチリと音を立てて緊張し、少年の体を一気に森の奥へと引きずりはじめた。
「うわぁぁああっ! やめろっ、やめてくれぇ!」
少年は地面をかきむしりながら必死に抵抗する。
だが、その手指からは次々と爪が剥がれ落ち、石畳の上に赤い線をいくつも引いていった。
ベッツは思わずしゃがみこみ、少年の手を掴もうと身を乗り出した。
だが――その瞬間、まるで反応したかのように糸はさらに勢いを増し、少年の体はずるりと地面を滑って、あっという間に茂みの中へと姿を消した。
「やだっ……たすけて――!」
最後にひときわ高く上がった悲鳴が、森の奥から木霊のように響く。
だが、それきりだった。
森は、なにごともなかったかのように静まり返っていた。
その凄惨な光景に、街の住人たちはただ唖然と立ち尽くしていた。
誰もが、声も出せず、目の前の出来事が現実だとは信じられないまま――ただ、見ているしかなかった。
だが、引きずり込まれた少年の最後の叫びが森の奥へと吸い込まれていくと、まるで呪縛が解けたかのように、誰かが息を呑んだ。
そして次の瞬間、誰ともなく悲鳴が上がる。
「ひいっ……!」
「逃げろ! 化け物だ!」
一人が走り出すと、それを合図にしたかのように他の者たちも我先にと四方八方へ駆け出していった。
理性も秩序もとうに吹き飛び、ただ己の命だけを守るための逃走劇が、無秩序に広がっていく。
赤い血を踏みつけ、倒れた少女の体を避けながら、人々は蜘蛛の子を散らすように消えていった。
少年が引きずり込まれた茂みが、じわじわと不自然に揺れ始めた。
何かがそこにいる……そう確信させるには十分すぎる動きだった。
腰を抜かしたベッツは、もう後ずさることすらできない。
足は地面に縫いつけられたように動かず、目だけがただ茂みを凝視していた。
そして……
「コケ・コーラーァァ!」
木霊するような甲高い鳴き声が逃げ惑う人びとを、さらにキンキンに凍りつかせた。
ごくっ、ごくっ! 夏はやっぱり――コケ・コーラー!
どこかで聞いたような軽快なCMフレーズが、脳裏にふとこだました気がした。
ざわ……と、密やかに揺れる茂み。
そこから、すっと差し出されたのは、白磁のような艶を帯びた一本の脚――
見る者の視線が吸い寄せられる中、その先端が、
つん。
まるで誰かに見られているのを知っているかのように、慎ましく、しかしあまりに艶やかに、
つま先が道の上にちょこんと触れた。
その所作には、禍々しさも凶兆もない。ただ、場違いなほどに計算された優美さと、
目を逸らせないほどの妖艶さだけがあった。
「……ゴクリ」
誰かの喉が、反射的に鳴った。
それは、恐怖でも戦慄でもない。
むしろ、生き物として逆らえない“本能”が反応してしまったのかもしれない……
目の前に現れた、その“得体の知れない色気”、いや”恐怖”に……




