タカトの心(4)
涙をぬぐったビン子は、はっと何かを思い出したように振り返ると、駆け足で倒れた老婆の元へ向かった。
抱き起こした老婆の顔は、深くかぶったローブに隠れ、よく見えない。
だが、ちらりと見えた頬のしわと、うっすらと開いたまぶたからは――生命の灯が、今にも消えそうなほど弱々しく感じられた。
「ちっ……」
その様子を横からのぞき込んだタカトが舌打ちする。
「なんだよ、倒れてたの、ババアかよ。つまんねえの」
が、その瞬間――
「……ひっ!?」
背筋がゾクリと冷える。
ビン子が、まるで鬼のような形相でタカトを睨みつけていたのだ。
「お、おばあさん、大丈夫ですか……?」
ビン子の声は震えていたが、優しく老婆に呼びかける。
老婆はかすれた息で答えた。
「……ちょっとな……『命の石』を、落としてしまってな……」
「命の石?」
タカトが眉をひそめる。
「そんな石、何に使うんだよ。あんな固そうなもん」
老婆の声は、どんどん小さくなる。
「……あれがないと……命に……かかわるんじゃ……」
「……え、まさか……命の石がないと、お前、死ぬのか?」
「……あぁ……」
すでに老婆の呼吸は浅く、不規則だった。
ビン子は固まったまま、老婆の肩を抱きしめていた。
――どうしよう……。
命の石は高級品。
今持っている金貨1枚じゃ、せいぜい親指の先くらいの小石しか買えない。
しかもそれを使ってしまえば、文字通りスッカラカン。
食材すら買えなくなる。
また、あの――ネズミと芋だけの生活に逆戻りだ。
ビン子は、そっと顔を伏せた。
――どうしようもない……。
いくら助けたくても、今の私たちにはどうにもできない……。
肩を震わせながら、ビン子の瞳から涙がつぅっとこぼれる。
――ごめんなさい……ごめんなさい……。
何もできない自分が悔しくて、ただただ心の中で謝ることしかできなかった。
しかし、ビン子がふと顔を上げた時――
タカトの姿が、そこにはなかった。
「……は? あの野郎、まさか――」
逃げた!?
老婆を置き去りにして!?
また私に丸投げして、トンズラこいたっての――!?
まるでそれが“正解”だと言わんばかりに――。
ピンポ~ん! ピンポ~ん!
背後から、聞き覚えのある電子音が鳴り響く。
コンビニのドアが開いたときの、あのいつものチャイムだ。
ビン子が振り向くと、タカトはすでに中へ駆け込んでいた。
「ちょっと待ってろ! この店で命の石、買えるだけ買ってくるからな!」
「えっ、ちょっと!? そのお金使う気!? 食料どうすんのよ! じいちゃんに怒られるってば!」
「バカ言え! ジジイとババアなら、オッパイある分ババアの方が価値あるに決まってんだろ!」
意味が分からない……
意味は分からないが、まぁ女に弱いタカト君。
女性の守備範囲は幼女から老婆までと実に幅広い!
要は、おっぱいがついていればOKなのである。
って、ジジイにもオッパイはついとるがな……
アホか! ジジイのはオッパイではなくて、雄ッパイじゃ!
だが、ビン子は知っていた。
タカトは、いつだって自分から貧乏くじを引きにいくのだ。
まるで、誰も近寄ろうとしない外れくじを、あえて拾い上げるかのように。
――本当にどうしようもない、手のかかるひと……
しかも引いたあと、決まって「うわ、最悪! 俺、呪われてんじゃね!?」と、派手に騒ぎ立てる。
普通なら「お前のためにやったんだ」とでも言いそうな場面なのに。
タカトは、そういう恩着せがましさとは無縁だった。
ふざけた騒ぎっぷりは、むしろ「気にすんな」と言っているようにすら思える。
それが彼なりのやり方――相手に負い目を背負わせないための、ささやかな優しさ。
今、ビン子が着ているこの服だってそうだ。
貧乏な権蔵が買える服なんて、一度にせいぜい二着。
それすら、年に何度あるかも怪しい話だ。
当然、ビン子だって女の子。おしゃれぐらいしたい。
でも、養ってもらってる身で贅沢なんて言えないってことくらい、ちゃんと分かってた。
そんなわがまま、飲み込むしかないのだと……ずっと、自分に言い聞かせてきた。
そんなビン子の気持ちを知ってか知らずか、タカトは自分に与えられた服をビン子に投げ渡すのだ。
「こんなの、俺のセンスじゃねーし。お前が着ろよ」
ぶっきらぼうで、投げやりで、でも――やさしかった。
もしかしたら、ビン子が周りの女の子たちにバカにされないように、少しでもおしゃれができるようにとのタカトなりの気遣いだったのかもしれない。
そんなタカトはその後きまってアイナちゃんがプリントされた一張羅のTシャツに勢いよく頭を突っ込むのだ。
「L! O! V! E! アイナちゃっぁぁぁん! ふぉぉぉぉぉぉぉぉ!」
……バカみたいに、声を張り上げて。
もしかすると、本当にただ騒ぎたいだけなのかもしれない。
何も考えていないのかもしれない。
気なんて、使ってないのかもしれない――
でも、そんな風に振る舞ってくれるからこそ、こっちは救われる。
引け目なんて感じずに、素直に「ありがとう」と思えるのだ。
――バカ……
もう、タカトが本当はどう思っているのかなんて――そんなこと、どうでもよかった。
たとえそれが演技でも、無意識でも、あるいはただの偶然だったとしても……
ビン子は、タカトのそういうところが、たまらなく愛おしかった。
誰かのためにバカをやり、誰かのために笑って、
そのくせ、何事もなかったような顔で空を見上げる。
――そういうタカトが好き。
不器用で、強がりで、優しくて。
ビン子の心はいつも、その笑顔に救われていた。
好きとか、感謝とか、そんな言葉じゃ足りない。
タカトがタカトでいてくれることが――ただ、それが、うれしかった。
コンビニから息を切らして戻ってきたタカトは、震える老婆の手に買ってきた命の石をぐいと握らせた。
「ババア! コレでいいんだな!」
老婆は石を握りしめたまま、しばしの沈黙。
次の瞬間、ひとつ大きく深呼吸をすると――
「ふぉぉぉぉぉぉぉぉ!」
と叫びながら勢いよく跳ね起きた。
それはまるで、ステージのど真ん中でシャウトするラッパーのよう。
その手はリズムに乗るように宙を切り、二本の指をピンと立てて天を指す。
「古いがポンコツ、いやババアではない!」
金色の目がギラリと光る。
さっきまで瀕死だったとは思えない鋭さと輝きが、全身から放たれていた。
――金の目!? ってことは……神様だったのかよ、このババア!
「I’ll be back.」
老婆はそう言い残すと、まるで風のように、軽やかな足取りで路地裏へと消えていった。
タカトとビン子は、しばらくその暗がりを呆然と見つめていた。
沈黙の中、ゆっくりと視線を交わす二人――。
――もしかして……だまされた?
沈黙のまま、ふたりはそっと顔を見合わせた。
そして、ゆっくりと視線が手元の財布へと落ちていく。
当然、中は、空っぽだった……
風が吹いた。
冷たい空気が、ふたりの肩をかすめていった。
さっきまでの喧騒が嘘のように消え、
ただ、現実だけが静かにそこに立っていた。
権蔵は、辛そうにうなずくビン子をじっと見つめると、その目元をわずかにゆるめ、静かに口を開いた。
「……嘘くさい話じゃがの。まあ、お前が言うんなら、そうなんじゃろう」
その声には、ビン子への揺るがぬ信頼がにじんでいた。
怒りを飲み込んだ権蔵は、ふぅと息をついて肩を落とし、ぶつぶつと独り言のように愚痴をこぼしはじめる。
「にしても……このままじゃ、ワシが死ぬ番かもしれんのぅ……まったく、やっとれんわい」
そこに、場の空気を読まない男の声が割って入った。
「大丈夫。大丈夫。じいちゃんは頑丈だけが取り柄だから。そうそう死なないって!」
タカトがお気楽な声で言うと、権蔵は一瞬、ぽかんとした表情を見せ、それから盛大に怒鳴った。
「ドあほぅ! お前のせいで、ワシは首をつりそうなんじゃヨ!」
だが、怒鳴ったものの、すぐにその勢いはしぼみ、深いため息へと変わる。
そして、ふとタカトとビン子を交互に見やると、力なく肩を落とした。
「……もう、ええわ。ワシが何言うても、どうせお前は止まらんしのう……」
ぽつりとそう呟き、権蔵はどさりと腰を下ろす。
手をだらりとおろし、しばらく動かない。
――もう、なんか疲れたわい……




