タカトの心(2)
その日、配達を終えたタカトとビン子は、夕飯の食材を買うためコンビニへと向かっていた。
真上から照りつける太陽が、ジリジリと二人の肌を焼き、背中に汗を滲ませる。
「ビン子ぉ~、これでやっとまともな飯が食えるぞ~♪」
「わたし、エビフライがいいっ!」
「おいおい、それは祭りのときだけの贅沢だろ」
「えぇぇぇ!? タカトのケチ! 一本だけでいいから〜お願いっ♥」
「……って、それお前だけ食べる気満々じゃねーか!」
「エヘヘヘ、バレた?」
二人の足元に広がるのは、舗装の甘いデコボコ道。ところどころに土が顔を出し、長年手入れがされていないことが伺える。
そんな石畳の先に、目指すコンビニがひっそりと佇んでいた。
とはいえ、この街並み――どこか奇妙だ。
現代日本でもなければ、純然たる和風というわけでもない。かといって完全なファンタジー世界とも言いきれない。
和の屋根に中華の看板、洋風の石造りの建物が並び立つ、ちょっとどころじゃなくチグハグな景観。
まるで某きん魂アニメ(※一部商標の都合により自主規制)から飛び出してきたような、“和洋中全部盛り”な混沌とした世界観だ。
おそらく、大門が異次元世界とつながっていることが影響しているのだろう。
様々な文化や人種、そして“常識”までもがごった煮状態になった結果が、この不思議な融合都市なのである。
「ねぇ、タカト……なんか、臭くない?」
ビン子が鼻をつまみながら、あたりをきょろきょろと見回す。
そのひと言に、タカトの眉がピクリと動いた。
こっそりと脇に手を入れ、自分のにじむ汗をかいでみる。
――うわ……俺か……? てか、この服、いつ洗ったっけ……?
仕方ない話だった。
タカトの着ているTシャツは、彼が唯一持っている服。
数年間、着続けて、色はくすみ、繊維はへたれ、首元は伸びきっている。
どれだけ洗っても落ちない“年季”が、しっかりと染みついていた。
そもそも、権蔵の家は根っからの貧乏暮らし。
奴隷の身である権蔵に、タカトやビン子へ満足に衣類を買い与える余裕なんて、あるわけがなかった。
それでも、季節の変わり目には少しでもまともな服を……と、権蔵なりに苦労して新しいシャツを調達してくれていたのだ。
だが、タカトは決まってそれを着ようとしなかった。
「こんなの、俺のセンスじゃねぇし。お前が着ろよ」
そう言って、新品の服をぶっきらぼうにビン子へ投げるのが常だった。
だが、あれはただの照れ隠し。
本当は、ビン子に着てほしかったのだ。
汚れたシャツで過ごす自分より、ビン子のほうが似合うし、きっと嬉しそうにしてくれる。
でも、そんなことを素直に言える性格ではないタカトは、
“自分が着たくないから押しつけた”という形にすることで、さりげなく彼女に服を渡していたのだった。
結果、今のタカトは何年も着古したTシャツを着続けることに。
シャツはすっかり黒ずみ、しわしわにへたり、生乾き雑巾のような香りを放ち続けていた。
でも彼にとっては、それでも構わないのだった。
だが、ビン子が感じ取った異臭の元は、タカトではなかった。
というより、彼のニオイなんぞ、もう生活の一部である。
実家の押し入れの匂いとか、飼い犬の足の裏とか、そういった“慣れたニオイ”というものは、案外気にならないものなのだ。
世の中には、シュールストレミングの発酵臭を「おいしい」と感じる人間もいるのだから、ビン子も似たような部類なのだろう。
問題は、別にあった。
コンビニの前では、タカトと同じくらいの年恰好の少年少女たちが、十人ほどたむろしていた。
こういうの、日本のコンビニにもあったな……って、最近は見かけなくなったか。
……が、その群れの中に、ひときわ異様な“黒い塊”が転がっていた。
しかも、それを少年たちが笑いながら、サッカーボールよろしく蹴飛ばしているではないか。
周囲では少女たちがゲラゲラと笑い、無駄にイキった少年どもは調子に乗って蹴りのスピードを上げていく。
その黒い塊は、最初こそ野良犬か何かかと思った。が、違う。
……人だ。老婆である。
汚れきった黒いローブに身を包み、地面を這うように丸まっている。
その不潔さたるや、タカトなど赤子の手をひねるレベル。
例えるなら――タカトがトイレに浮かぶ出来立てホヤホヤのう○ことすれば、
その老婆は肥溜めの底で濃縮発酵された“熟成う○こ”。
腐敗と年月の積み重ねが、ここまで違いを生むとは……実におそろしい。
そのため、そのローブからは、牛乳と納豆と雑巾を一晩煮込んだような異臭が漂っていた。
そう、ビン子が先ほどから感じていたのはまさにこの臭気だったのだ。
って、納豆はもともと腐ってるじゃないかって?
いやいや、違う! それは“発酵”だ。腐敗とはまったくの別物。ちゃんと線引きしていただきたい。
……ほら、ちゃんと言い直して!
「牛乳と“腐った”納豆」じゃなくて――「牛乳と“発酵しすぎて方向性を見失った”納豆」!
まあ、言うなれば、タカトの人生と似たようなものだ。
発酵はしてるけど、どこに向かっているのか、さっぱり分からない。
そうこうしているうちに、リーダー格らしき少年が、老婆の腹を思いきり蹴り上げた。
うごっ――低い呻きとともに、老婆の小さな体が跳ねる。
だが、すぐに崩れるようにうずくまり、次の瞬間には震え出した。
しおれた手の隙間からあふれ出すのは、止めどなく流れる真っ赤な血。
それはやがて、老婆の体の下にじわじわと広がり、暗い血の海をつくっていく。
だが――周囲の人々は誰一人として動かなかった。
むしろ、冷ややかな目を向けながら、まるでそこに汚れたゴミでも落ちているかのように距離を取って通り過ぎていく。
その視線には、哀れみも怒りもなく、ただただ「関わりたくない」という意思だけがにじんでいた。
もしかすると、その冷たい視線は老婆だけでなく、暴行を加える少年たちにも向けられていたのかもしれない。
――けれど、誰も声を上げはしなかった。
その様子を見たビン子は、とっさに老婆のもとへと駆け寄り、蹴りを放とうとした足にしがみついた。
「ベッツ! やめて!」
リーダー格のその少年――名をベッツローロ=ルイデキワ、通称ベッツという。
一般国民であるタカトやビン子とは異なり、彼は上流階級の〈神民〉に属する。
神民とは、騎士に次ぐ高位の身分。つまり、それだけでとても偉い――らしい。
いや、正確にはベッツ自身が偉いわけではない。彼の実家、ルイデキワ家が偉いのだ。
騎士の門外にある駐屯地へと物資を運ぶ輸送業を生業とし、金も権威もある家系。おまけにその家族がまた輪をかけて偉そう――いや、高慢ちきなのである。
そんな成金一家の御曹司・ベッツの小太りの体は、おでんのキャベツロールよろしく、内臓脂肪をこれでもかと詰め込んでいた。
普段から、いいモンをたらふく食わせてもらってる証拠だろう。
本人は「俺、イケてる」くらいに思っている節があるが、その頭のてっぺんに輝く金色のモヒカン――
どう見てもキューピーちゃん!
……なあベッツ、鏡見てこい。まずはそこからだ。
ていうかお前、ブタだブタ。モヒカン巻いたただのブタや!
そんなキューピーちゃん――もとい、ベッツは、突然現れたビン子に目を丸くした。
「おっ、ビン子じゃねぇか!」
老婆のことなどすっかり頭から吹き飛んだのか、蹴るのをやめ、まっすぐビン子に向かってきた。
そして、ぐいっと手をつかむ。
どうやら、ベッツはビン子に気があるらしい。
「なぁ、俺たちと遊ぼうぜ? ほら、遊んでくれたらこれやるよ」
指先につまんだ銀貨を、ビン子の目の前でいやらしく揺らして見せる。
まるでエサを見せびらかすようなその態度に、ビン子の眉がぴくりと動いた。
「……バカにしないでよ。なんでアンタたちなんかと」
ビン子は、軽く銀貨をはたき落とすようにして手を振り払った。
まるでそこにハエでも飛んでいたかのように。
その瞬間、ベッツの顔から笑みが消えた。
――貧乏人のくせに、俺を拒むのかよ。
見下されたと感じたベッツは、むっとした表情を浮かべ、ビン子の手をぐいっと強く握りしめた。
「痛っ!」
ビン子が短く悲鳴を上げる――その声に、すかさず割り込んできたのはタカトだった。
「ベッツ、その汚い手を離せ!」
背後から、タカトがベッツの肩を掴む。
登場のタイミングはまさにヒーロー! これはちょっとカッコいいぞ、タカト!
……だが、非力。
全力で握っても、ベッツの肩はびくともしない。
――あれ? 効いてない?
それどころか、
「おいおい、タカトもいたのかよ」
と、ベッツはにやりと笑ってまわりに目配せを送った。
その合図に合わせるように、周囲の少年少女たちがざわめきはじめる。
口笛、冷やかし、嬌声――まるで一斉に見世物が始まったかのように、場の空気が騒がしくなっていく。




