エピローグ
ビクトリア朝ロンドンの荘厳な建物、王立オペラハウスの電子再現。その三階にある脚本会議室は我らが卓の秘密基地だ。敵拠点に潜入し、二倍の敵相手に古城舞奈を救出する。困難極まりないシナリオを成功させた俺、沙耶香、ルルが集まっているのは、ミッション成功を祝うためではもちろんなかった。
狐面を付けたRMモードのルル。彼女の指から黄色の光線が繋がるのはテーブル上に浮かぶホログラムだ。一見すると地形図のような半透明の立体。だがよく見ると点と線の集合体だ。地形上の個々の座標は個人IDであり、高さはスコアだ 。すなわち、インビンシブル・アイズが追跡している対象の優先度を示している。
ちなみに表示されているのは海面上に現れたごく一部であり、つまりここにIDが見えているだけで危ない。
注目している頂点《ID》は三つ。俺の墨芳徹、高峰沙耶香、そして古城舞奈だ。三点の中で、今のところの最高峰は俺だ。Xomeに二度潜入したのだから当然である。二番目が舞奈、そしてそれからずっと下がって平均から少し浮き上がっているのが沙耶香だ。
俺と舞奈の間には山頂を繋ぐように強いリンクが張られている。舞奈と沙耶香の間にも弱いつながりがある。幸いなのが俺と沙耶香の間に何のつながりもないことだ。もし、三者が輪を作ればグラフ理論というSIGINT担当者にしかわからない理由でスコアが跳ね上がるのだ。
いや、間違えた。俺以外は分かっているが正解だったな。
墨芳徹は沙耶香と会ったことはない。あのDV避難所を借りていたのはルルの作り出した架空名義だ。つまり、情報の輪は完成せず紐の両端が不安定に揺れている状態というわけだ。
しかも、俺と舞奈の現在位置は不明だ。Xomeから出た後、舞奈は国防隊の特別車両が、俺はルルがその移動経路を隠ぺいした結果だ。ちなみに、Xome周辺の情報はぐちゃぐちゃになっている。
消防と警察が集まっていたのは見た通り。火災というルルの作り出した誤報だ。しかも、警察が調べていた危険な化学物質の出元がXomeだったという情報の捻じ曲げ、ある意味事実だが、により化学火災扱いになっている。
当然ながらシンジケートが警察そのものを恐れることはない。だが他のシンジケートが警察を“利用”して干渉してくることは嫌う。しかも、肝心の俺のIDは偽物だ。これが出来るのは本来シンジケートだけなので、財団は当然教団の関与だと考えるという仕組みだ。
だから俺のIDのスコアがいくら高くても問題ない。というか既に俺は墨芳徹ではないのだから。
だが、どれだけの壊乱を引き起こそうと、舞奈がXomeにいて、モデルを倒した挙句に逃げおおせた事実は消しようがない。実際ランドスケープの中で舞奈のスコアはどんどん上がっている。しかも舞奈につられて沙耶香のIDもスコアを上げていく。
前回のセッションの残滓が影響している。俺と違って二人のIDは本物だ。とはいえ、俺達には見守ることしかできない。電子情報戦《SIGINT》はルルしかできないからだ。
『墨芳徹のIDを再出現させる。海外がいい。これで残り二人への注目を分散……。サヤカとマナのリンクが強すぎて重心をずらせない……』
ルルの奮闘むなしく、どんどんスコアは上がっていく。もう少しでフィックス。つまり、優先ターゲットとして固定される。そうなったが最後、複数の高位モデルからなるチームに追われることになる。財団にも三隊しかいない精鋭だ。
舞奈のIDが閾値を突き抜け、続いて沙耶香のそれも続こうとした。背中に当たっている沙耶香の手が震える。
だが、その時舞奈のスコアが急に低下し始めた。いや、まるで地形全体が水没するように全体のスコアが下がっていった。やがて表示されたのは『Withdrawal』の文字。
「どう言う意味だ?」
『本来の案件。つまりXomeのNSD関連遺伝子の調査自体が取り下げということだね』
なるほど、つまり財団のプロジェクトそのものがなくなったから、舞奈を追う理由が大幅に減ったと。ヨハネスブルクに再出現した俺のスコアは高いままだが、これは問題ない。そんな人間はいないのだ。しかしこんな強引なことまで出来るとは。
「あそこから巻き返すなんてすごいな」
「おかしい。……国防隊との衝突を避けた? いや、それでは説明できない……」
俺はルルを称賛した。だが当の本人の顔は晴れない。ルールマスターはもう完全に理解させるつもりがないセキュリティー用語を並べながら、引き続き作業を継続している。何が問題なんだ、と聞こうとした時だった。
「ええっと【リンク】だっけ、これでいいのかな。もしもし、繋がってますかー?」
四つ目の声が会議室に響いた。生意気そうな若い女の子の声。そういえばテックグラスは回収していなかったな。
「古城さん」
「高峰さん? なんか声しか聞こえない。あれっ、そっちの二人は姿も見えるのに」
「それはですね。このシステムを使う上での資質の……」
ルルが作業に没頭したままなので沙耶香が舞奈に説明する。聞き終えた舞奈は「なるほど、よくわからないけどすごいね」と言うと、ささっとこちらに近づいてきた。そして「これで会うのは三回目かな」と言うと俺の横腹を指で突いた。
「すごい。本当に感触がある」
「セクハラはやめろ」
「背中を預けて戦った戦友に硬いこと言いっこなしでしょ」
「こ、古城さん?」
「っと、いけない。こいつ高峰さんのカレだったんだ」
「えっ、あの、だからそれは説明した通り。あのデートは……お芝居で」
「ええっ!? その言い訳はないでしょ。あの時の高峰さんの様子って……。大体、今も物理的に一緒にいるんじゃないの」
俺の背中の湿布を変えていた沙耶香の手に力が掛った。背中が痛い。
「言っておくがここはそんな軽いノリで入ってきていい場所じゃないぞ」
俺は二人の18歳女子に注意した。由緒正しき密偵の隠れ家を放課後のファミレスみたいな空気にされたらロールプレイに響くだろうが。天才科学者でもスーパーハッカーでも、バトルジャンキーでもないんだからな。
『そうだね。そちらの事情を聞こうか』
「ええっとルルーシアさんだっけ。何で狐なの? ああそうだ、最初にこれを言わないといけなかったんだ。今回は助けていただいてありがとうございます」
さっきまでのふざけた態度を一転させて、舞奈はピンと背筋を伸ばし礼儀正しく俺達に頭を下げた。まるで剣道の試合前みたいな、見事な姿勢だった。
「……というわけで、こちらからはそんなところです。あんな危ない組織と関わるなんてって、パパに叱られたんだよね。でも、私被害者だよね。遺伝子ならパパとママにも責任あるわけじゃない」
舞奈の説明が終わった。要するに国防隊と警察が裏で連携してXomeについては調査する。ただし、何も見つからないだろう。いや、見つけようとすれば横やりが入るだろうということだった。まあ、さっきのスコアの変動を見れば、その程度の時間稼ぎでも十分役に立ったと言える。
ちなみに娘の方は、神妙な態度は最初だけですっかり砕けた口調にもどってしまっている。
「……一応確認しておくが、その危ない組織って『シンジケート』のことだよな」
「さてさて。パパは戦略の要諦は敵を一度に一つに絞ること、なんて言ってたから大丈夫じゃない?」
絶対こっちも怪しんでるだろ。そりゃ俺たちみたいな怪しい連中を警戒しないような人間が、国家諜報の幹部じゃ困るが。ルルは国防隊幹部の任務用の回線に無理やり通信を繋げた挙句、警察の内部情報も含めたコグニトームの改竄の痕跡まで示したらしいからな。
「というわけでこれからよろしく」
「よろしく? もう君のシナリオは終わったんだが」
俺はNPCに言った。NPCが飛び入りでパーティーに参加することはTRPGではよくあるが、それはあくまでゲストだ。
「えっ? でも私もこのチーム、パーティーだっけに入るんでしょ。ねえルルーシアさん」
「そうなんですか?」
「聞いてないぞマスター」
俺はいまだ難しい顔をしているルルに聞いた。ルルは作業から手を放した。そして不思議そうな目で俺を見る。
『マナにはニューロトリオンの才能がある。古城晃洋とのパイプも作るべきだ。これは両方とも君の意見だったはずだよ』
「…………」
「実は子供のころからこういうヒーロー的なのに憧れてたんだよね」
「勘違いするなよ。俺達は正義の組織じゃないからな」
「へえ、じゃあなんで私を助けに来たの?」
「…………古城晃洋に貸しを作る為だ」
「つまり、パパとの繋ぎである私は必要ってことじゃん」
舞奈の言葉に俺は口を閉ざさずにはおれなかった。秘密の関係というなら、古城晃洋本人や部下という、必要に応じてこちらを切り捨てる存在よりもいいのは間違いない。ある意味人質だ。そう思おう、密偵らしく。
「それに、高峰さんとも一緒だし」
「そうですね。今回のことも考えると……心強いと言わざるを得ないです」
「大丈夫、友達の彼に手を出したりしないって。あくまで戦友? みたいな感じだから」
「そんなことを心配してるんじゃないです。ただ、古城さんも危険なことになったらと思ってるんです。でも、白野さんだけだとまた無茶をするかもしれないし……」
姦しい二人の女の子の会話。やっぱり放課後のファーストフード店か何かと勘違いしているだろ。とはいえ、戦力としての古城舞奈は確かに貴重だし、シンジケートという強力な組織に対するのに、国防隊とのつながりは必要だ。最悪の場合シンジケートと国防隊に挟み撃ちにされるかもしれないとしても。
そういえば、結局さっきの謎の援軍はこの子の父親絡みだったのだろう。そう思って作業にもどったルルを見る。
ルルは納得いかない表情のまま「誰が干渉を……」と動きを止めたホログラムの地形を解析している。
「うんうん。女の子なら友情より恋だよね」
「何の話ですか」
とにかく今後のシナリオではなるべく戦闘は避けよう。俺はそう心に決める。俺達の目的はあくまで自分たちの安全の確保だ。戦うのは最後の手段だ。それに、舞奈が何か言うたびに、サヤカの手が傷口を抉るのだ。




