12話 三毛猫保護 (1/2)
「……仮住まいなのにすごいね」
「え、ええ。古城さんが「ちゃんと距離を置かないと」ってアドバイスしてくれましたから」
「そうだけど限度が……って高峰さんには無用の心配か。そうね、セキュリティーは大事だもの。ただ、しかるべき措置を取ればそんな苦労は要らないと思うけど」
「それは……その……まだ決心がつかなくて」
隣部屋の玄関が開き、二人の女の子の話が聞こえてきた。ここは独身用の高級マンションの五階だ。広さは2LDKと小さいが設備は整っている。家賃は“僕”のマンションの十倍以上だ。そして何よりDeeplayerの死角である。
セッション2でルルが押さえたセーフハウスが沙耶香の仮住まいになり、彼女が友人の古城舞奈を連れてきた。仕掛けられたマイクの音声データをルルがリンク越しに送ってきている。それが今の状況だ。
「それにしても、いきなり襲い掛かるなんて。あいつ、絶対に許せない。ああもう、一度でも信用した自分の目を呪うわ」
リビングに通された舞奈が堪えかねたように怒りの声を上げた。彼女の怒りは正当である。なぜなら彼女がここに来たのは、最低のDV野郎に傷つけられた友人に相談されたからだ。緊急の予定があったのにキャンセルしてまで。
人情に篤い性格を利用して彼女をこのシナリオに引き込んだ身としてはいささか罪悪感を感じる。
「で、でも。ええっと、彼にもいいところはあって……」
「あのね。そんなところに付け込まれるのよ。いい、男なんて基本的にケダモノなんだから」
やっぱり罪悪感は要らないかな。なぜかそんな気がしてきた。
「で、でもね。ええっと……。そう、初めての相手っていうのはやっぱり特別で」
「高峰さん!? ええっとね………………。そうだ、あなたはまだ若いんだから、そんなの野良犬にでも噛まれたと思って忘れないと」
一瞬きょどった舞奈がすぐに諭し始める。『初めての相手』という言葉の意味が誤解を呼んだのは明らかだ。いや、相談の内容からして舞奈が誤解するのは当然ではあるか。
ひどい男もいたものだ。想定したシナリオではそこまでひどい設定にはしていないはずだが、一体沙耶香は友人にどんな描写をしたんだ?
『ぷっ、くくっ。これはなかなか。野良犬としてはどうだい?』ルルが吹き出すのが聞こえてきた。確かに、DV男から逃げた可哀そうな女の子ではなく、DV男に引っかかったダメな女の子のロールになっている。
言うまでもないが、最低のDV男は俺のことだ。だが、とにかく舞奈をここに連れてこられたのは作戦成功ではある。俺達はどうしても数日間、彼女をここで監禁、いや保護しなければならないのだから。
俺は先日の作戦会議の様子を思い出す。
◇ ◇
分厚いカーテンと天鵞絨の壁紙に囲まれ、ゴシック調の木のテーブルが置かれた時代がかった部屋。Xome探索を辛うじて成功させた俺達は、今後の話し合いの為にコグニトームの裏側に集まっていた。
卓上のホログラムには警察情報が表示されている。運動部員襲撃現場で見られた自動運転車を調べた結果、危険な化学薬品が検出されたこと。念のために指定病院で検査を受けて欲しいという要請だ。そのあて先は古城舞奈である。
「図らずともボク達の探索結果が正しかったと、答え合わせが出来た」
「…………」
「これから彼女はどうなる?」
俺は押し黙っている沙耶香に代わって尋ねた。
「警察指定の病院には財団の手が伸びている。彼女は何らかの医学的理由で別の機関に移送される。もちろん財団の特別な施設だ。そして数日後、結局何もなかったとして戻ってくる。彼女が自分がされたことに気が付くのはDPCが完全に脳に定着した後だ」
そう、古城舞奈は財団の最終候補に残った。最悪の正解だ。問題はこれからどうするかである。
「僕としてはここまででシナリオを止めたい」
ルルが言う。キャラクターシートを確認したが、レベルアップまでもう少しだ。あの探索は戦闘こそなかったが新しいスキルの使用など経験(値)はかなり得た。次にセッション1のような比較的簡易なシナリオで確実にレベルを3に上げる。より難しいシナリオに挑むならその後の方が良い。
「実は君の為に装備の作成も進めているんだ。ニューロトリオンによって機能する武器や防具だ」
「……システムの戦闘色を勝手に強めないでくれよ。まあ、俺もルルに賛成だ。今回のことで財団の警戒が上昇したのは間違いない。第一、彼女を最終的に守る手段が思いつかない」
俺とルルは頷き合った後、最後の一人を見る。もちろん、全会一致である以上、これで決まりだが、彼女にとっては古城舞奈は赤の他人ではない。
「彼女のエピゲノムに干渉して候補から外すことが出来たとしたらどうでしょうか」
「エピゲノムに干渉? 遺伝子情報を書き変えるってことか?」
しばらく考えた後、沙耶香はそう言った。いくら深刻な状況とは言え友人の遺伝子書き変えとか、発想がマッドサイエンティストすぎないか?
「いいえ、ゲノム配列を変えることはできません。ですがエピゲノムを変えることは可能です。それも、場合によっては短時間で」
沙耶香は訂正する。だがその後「もちろんゲノムもしかるべき施設があればゲノム編集で好きに変えられますけど」と付け加えた。そういうところなんだが……。
「すでにスコアが出ている状態で意味があるかな?」
「現時点で古城さんがモデルになると完全に決まっているわけではないと思います。理由は、Xomeが調べていたデータはあくまで血球細胞のメチル化だからです。これを見てください」
沙耶香がホログラム上に準備していたらしい資料を展開した。三色の毛皮を持った小型肉食動物の写真だ。首をかしげる俺に説明が始まる。
「三毛猫の体毛のパターンはX染色体の不活性化というエピジェネティックな現象によって生じます」
「X染色体の不活性化?」
「女性は男性の二倍のX染色体をもつので遺伝子発現量を調節するために片方を不活性化します。その方法がX染色体一つを全体的にメチル化するX染色体の不活性化です」
三毛猫の下に表示された顕微鏡写真はXomeで見せられたものだ。二つのX染色体の一つが小さく凝縮している。大げさに言うと『X・』に見える。DNAのメチル化により染色体がぎゅっと締まりその部分の遺伝子発現が押さえられる。それが染色体全体に起これば光学顕微鏡レベルでわかるほどの大きさの違いになる、あの時はそういう話だったか。
「父親由来と母親由来のどちらのX染色体が不活性化されるかは胚発生の初期に細胞毎にランダムに決まります。将来の皮膚になる細胞の中で父親由来のX染色体が不活性化された細胞と、母親由来のX染色体が不活性化された細胞がランダムに生じます。各細胞はその不活性化パターンを受け継ぎながら細胞分裂をして最終的に皮膚の細胞になるのです」
「つまり皮膚の細胞は『X・』と『・X』がモザイク状に混在するわけだね」
「そういうことです。猫の体毛の色は五つ以上の遺伝子が関係するので詳しくは説明しませんが、その中の茶色と黒に関わるOという遺伝子がX染色体に存在します。このO遺伝子をヘテロ、つまり茶色にする顕性O、とその機能を失って黒くなるoを組み合わせて持つ個体は普通ならすべての細胞でOが優位になるので茶色の猫になります」
「メンデルの遺伝法則とか、そこら辺の話か?」
「そうです。ですがこのO遺伝子はX染色体にあります。つまり、そのランダムな不活性化により皮膚のある部分ではOが、別の部分ではoが発現する現象が生じ起るのです。これが三毛猫の黒、茶、白の模様を作ります。三毛猫が基本的に雌にしか現れないのはそのためです。また、どちらのX染色体が不活性化されるかはランダムですから、同じゲノムでも三色のパターンは個体ごとに違います」
胚発生初期 O o O o o O
↓細胞分裂
体毛形成 OOOO oooo OOOO oooo oooo OOOO
高校の生物のテストでメンデル遺伝については丸を貰った記憶があるが、この問題なら解けなかっただろうな。とにかく、細胞の少ない時期に奇数か偶数かのダイスを振って、その細胞の子孫はそのダイス目を受け継ぐと。ややこしい話を無理やりそう理解する。しかしそうなると……。
「血液を採取されたのは全員女子だったよな」
今の話なら女子は潜在的に男子の二倍のhNSD遺伝子を持つことになる。もちろん、その片方は染色体ごとDNAメチル化で不活性化され、男子と同じになる。だが、財団が調べていたのはそのDNAのメチル化だ。
財団が欲しいhNSD遺伝子がX染色体に存在するおかげで、俺はメンデル遺伝、伴性遺伝、そしてエピジェネティクスという三つの要素が絡まった三毛猫のでき方を聞く羽目になった。
「最近の研究で不活性化されたX染色体の中にも遺伝子を発現する領域があることが分かっています」
沙耶香がXome三階で入手した54人のデータを並べる。そういえば配列データは二つあった。つまり、母親由来のX染色体と父親由来のX染色体のそれぞれの①配列だ。
「ほとんどの被験者で片方のhNSD遺伝子はメチル化により不活性化されています。さらに言えば、もう片方もかなりのメチル化が見られます。これではhNSDを活性化する配列②のA転写因子や、抑制を解除する③のB遺伝子の変異《SNP》があっても発現が期待できません。ですが数人の被験者は片方のhNSDのメチル化度合いが少なく、中でも古城さんは両方のX染色体のhNSDにメチル化がほとんど見られないという特殊なパターンを持ちます」
つまり通常の人間よりも少なくとも二倍以上、いやSNPを考えるともっと大量のhNSDを発現する可能性があるということだ。本来偽遺伝子であるhNSDの効果が期待できるほどに。
「財団のスコアはまさにそう計算されているね。ならなおさらもう手遅れじゃないかな」
「いいえ。そうとは言えないんです。今からそれを説明します」
沙耶香は言った。彼女の言葉には友人を心配する女の子というよりも、科学者としての論理性が感じ取れる。聞く価値はある。




