11話 潜入Ⅱ ゲノムの表裏 (2/2)
三階にあった配列データは配列①のメチル化されたシトシンを調べるものだった。だが、俺にはDNA配列のATGCの一つがメチル化される意味が分からない。だが、俺に分かる必要はない。こちらには頼もしいプロが付いているのだ。
『メチル化されたシトシンが多い領域ではクロマチンが凝縮します。つまり、遺伝子が発現しにくくなるんです』
沙耶香の説明では核の中のゲノムDNAはヒストンという円筒形のタンパク質に巻き付いている。いわば糸と糸巻きだ。だが、この糸と糸巻きの関係には『きつさ』がある。糸巻き同士がぎゅっと近づいていると、DNAの糸に外からアクセスできない。一方、ヒストンとDNAの結合が緩んでいるとDNAの糸にアクセスできる。
沙耶香が実例として出したのはX染色体の顕微鏡写真だ。女性にはXX染色体が二つある。つまり、X染色体の遺伝子が男性の二倍あることになる。だから、片方のX染色体を不活性化するために全体をメチル化するらしい。
写真では同じ大きさのはずの二つのX染色体の片方が半分以下の大きさに凝縮されている。
『これをゲノムに対してエピゲノム制御といいます。遺伝子発現はゲノム配列のスイッチだけでなく、そのスイッチへのアクセスのしやすさ、エピゲノムの二重で制御されています』
やっと少しわかってきた。
(つまり、配列①の領域にメチル化されたCが多いということは、そこにあるhNSDが発現しにくくなるということだな。だからそれをバイサルファイト法で調べた。それがここのデータだ)
『そういうことになります。仮にその人物が強いA転写因子を持っていても、DNAがメチル化されて凝縮していればそもそもスイッチに近づけませんから』
『なるほど。これでスコアの意味が分かった。ここにある新しいスコアは二階の②と③の変異《SNP》と①のメチル化の複合だ。つまり本当のスコアだ。そして、このスコアが高いほど財団にとって優先順位の高いターゲット、モデル候補になる』
ルルがスコアを解読する。三つのIDが特に高い数字を持つことが分かった。そしてその中でも一番高いIDは……。
『古城舞奈のIDだね』
沙耶香が「っ!!」と叫び声を抑える。俺も息をのんだ。探索の成功は最悪の情報だ。
目の前の機械を睨む。どうする。いっそこれごとデータを破壊してやるか? いや駄目だ。サンプルが残っていたら一日で復帰だ。そもそもそんなことをしたらここにあるデータに困る人間がいると教えるようなものだ。
ならばデータの改ざんか。この建物の中にバックアップがあっただけで終わりだが、やらないよりは……。俺がルルにそれを言おうとした時だった。目の前のデータが消え始めた。
『センサーとドローンの動きがパターンを変えた』
ルルの警告。急いで脳内の建物を確認する。モデルは動いていない。だが、この部屋を囲むようにドローンが移動し始めている。さっきまでは外側を警戒して周回していた輪が、小さくなっていく。侵入者の存在に気が付いたとしか思えない布陣の変更だ。
『新しい反応だ。敵のDPCからダイレクトにつながったドローンが出現した。監視室の真上、屋上の排気施設に隠れていた。大きさから言って本命だろう』
さらに嫌な情報が追加される。蜘蛛の巣の中で主に気づかれた状態。一刻の猶予もない。データを弄る暇も意味ももうない。少しでも早く脱出するしか出来ることはない。三階に上がる前に脱出経路は決めている。
だが俺の足は動かない。周囲は既に囲まれている。しかも、本命の武装ドローンが空中ドローンからの荷物を受け取る用の窓への通路にいる。
絶望が脳から体に一瞬で広がる。本能的な恐怖が足をこわばらせる。周囲から近づいてくるモノアイの群れが自分を網にかかった蛾であるように感じさせる。動けるだけですでにからめとられているのは同じ。すなわち絶体絶命。
(…………絶体絶命? つまり、今の自分が認識していない方法で逃げるしかないということだな)
絶望をスイッチに脳がモードを変えた。現在の俺の認識が間違っている未来世界を描き出す。世の中には存外、絶体絶命などという分かりやすいケースは転がっていない。大抵の場合は、眼が塞がっていただけ。いや、見えているはずなのに見えていないだけだ。
脳の奥からがなり立てる恐怖を無視して、状況をさっきとは違う角度で認識しなおす。俺ではなく敵が今この状況をどう見ているか、どう感じているかをロールする。
(ルル。俺の利点はDPCを持たないことだ。相手は存在しないDPCに最大の警戒を割きつつ、通常のセンサーも追うしかない。つまり、物理的にかき乱してやる隙があるはずだ)
『了解。大物の制御の為に、向こうが自律モードに切り替えた小物の一つを掌握する。そいつにセンサー情報を混乱させよう』
ルルが瞬時に意図を読み取った。ドローンの一つが動きを変える。それに複数のドローンが引きずられる。通路が開いた。俺は脱出経路の窓に向かって走る。だが、肝心の大型ドローンが俺の動きに反応した。なるほど本命は陽動に備えていたというわけだ。
流石は防諜の本職だ。ここまではセオリーが一致というわけだな。いいだろう、俺が向かうのは人間が通れないはずの窓だ。そこまで読み切れるか?
勝負の十字路。主ドローンが右に行けば詰み。左なら脱出路が開かれる。ドローンはモーター音と響かせて左に曲がった。俺は空いた通路を全力で駆ける。
ルルのドローンが破壊される音が聞こえた。目の前には、人の頭一つしか入りそうにない窓だ。サイズからしてドローンからの受け渡し用だ。狐のマークが浮かび、窓が勝手に開く。
読み勝った。
そう思った瞬間だった、向かいの壁が倒れ、円筒形の機械が飛び出してきた。二つの目を持ったドローンの眉間に第三の目が開く。
移動中の【ソナー】がぼやけていても高出力と分かる赤い光を見せつけられる。上野公園、弁天堂で見た光景だ。大きいといっても人間の背の高さもないドローンに搭載できるはずのない量の電力が集中する。レーザーサイトが俺の眉間に照準を合わせる。
だが、それが右肩へ移動した。それが生死を分けた。横から飛び込んできたドローンは、壊れたものの代わりにルルが新しく調達した機体。レーザーはその飛行ドローンに命中した。
破片と煙が飛び散る中、俺は外壁に脱出する。
両手で三階の外壁に張り付く。重力と接着力を調節し、壁面を滑るように斜めに下る。二階の非常階段出口の屋根に落下した。衝撃を打ち消してそのままバリアを発動。窓から飛び出てきた飛行ドローンのレーザーを防ぐ。そのまま一階へ階段を全速力で降りる。
Xomeの敷地を出てあらかじめ決めて置いた経路に向かう。近くの公園から建物を覗う。モデルは結局最後まで建物を出なかった。息を整えながら、ルルからIDを消去したという報告。息を付いた。
これで墨芳徹は存在しない人間だ。辛うじてだが脱出成功。だが、根本的な問題は解決していない。
(セーフハウスから例の部屋にアクセスする。今後のことを話し合おう)
俺は二人にそう告げたあと、公園の木立を道路に向かって出た。街燈の光に、自分の作業着の袖が焦げていることに気が付いたのはその時だった。
DNAのメチル化とその検出の参考ページ
https://www.abcam.co.jp/epigenetics/dna-methylation-a-guide
https://www.abcam.co.jp/epigenetics/chromatin-structure-and-function-a-guide-1




