10話 遺伝子回路
Volt NSD :ARNDCAQTWA
*** * * * - **
ゲノム配列① :LRNDKAQLLWA
アルファベットが二列並ぶ。ニ十種類のアミノ酸を各一文字で表したタンパク質の配列だ。上が先日の学会のVoltの中央部、ニューロトリオンに反応して形を変えるNSD、下がここで解読されたDNA配列①から予測されるstu2321という偽遺伝子のアミノ酸配列だ。『*』が一致するアミノ酸『-』がギャップを意味する。
(確かに似てるが。逆に三割は違うんだよな。同じ機能と言えるのか?)
ニ十種類の配列が71パーセント一致するのは偶然ではありえない。同時に、プログラムなら一文字の違いで、機械部品でもネジの大きさ一つ違えば動かない。
『完全に一致している割合は7割ですが、性質が似たアミノ酸も含めればもっと似ています。生物学的には同じ機能が期待される相同性です』
沙耶香の言葉と同時に、二つのアミノ酸配列が折りたたまれて立体模型になった。遺伝子をアミノ酸に翻訳して、そのアミノ酸配列から立体構造をシミュレートする。DNA配列があれば計算だけでここまで予測できるわけだ。
Voltの中央部《NSD》とstu2321は確かに形が似ている。Voltのように頭とお尻に蛍光タンパクは付いていないから、光ったりはしないけど、ニューロトリオンあるいはDPに反応する可能性が高いということになるのだろう。
『VoltのNSD配列さえあればヒトゲノム上に似た遺伝子を見つけることは簡単です。その遺伝子配列から試験管内でタンパク質を合成するまで専門家なら一日です』
『財団の支配するタワーに運べば、合成したタンパク質がディープ・フォトンに反応するか実験できるね。財団が目を付けたのは人間のゲノムの中に眠っていたNSD。いわばヒューマン・ニューロトリオン・センシティブ・ドメイン(hNSD)の遺伝子というわけか。①に関しては決まりだね』
(だが偽遺伝子なんだろ。実際に生体内で働いていないってことじゃないのか?)
『そうですね。確かに……。いいえ、配列①は他の二つよりも何倍も長いですよね。これはつまりhNSD遺伝子の周囲まで調べているということ。hNSD遺伝子の制御領域を含んでいるはずです』
stu2321駅を中心に線路が展開される。ゲノムは遺伝子として転写される部分と、その遺伝子がいつどこで転写されるのかを決める配列がある。設計図と、その設計図をコピーするスイッチだ。スイッチ配列には転写因子と呼ばれるDNAに結合して転写を制御するタンパク質が結合する。同じゲノムを持っているのに細胞の種類ごとに発現する遺伝子が違う理由だ。
沙耶香はそれらの転写因子の結合配列とhNSD遺伝子の周辺配列を比較するプログラムを走らせる。手慣れたものだ。ちなみにin silicoというらしい。コンピュータ上での実験という意味だ。
①の配列の中でhNSD遺伝子を挟んで赤と青の楕円形のタンパク質が結合する。
『あくまで予測ですがhNSDの周囲に二つの転写因子が結合する配列があります。財団の記号ではA-stu2321、S-stu2321となっています。おそらくAはアクティベーター。Sはサプレッサー。つまりhNSDのOnスイッチとOffスイッチです』
『なるほど。となると残りの二つの②と③はそれ絡みかな?』
『そうですね。……Onスイッチに結合する転写因子Aはちょうど『3q』にあります。配列②はA遺伝子です。もう一つ、Offスイッチに結合する転写因子Sですが、S自体は8番染色体ですが、Sを活性化する遺伝子が『12p』に存在します。配列③はその遺伝子の物ですね』
沙耶香がホログラム上に、三つの遺伝子を並べる。つまり、今回の件のキーワードである『Xp21.3』『3q28.4』『12q14.2』は、
『Xp21.3』 → ゲノム配列① → 『ニューロトリオン・センシティブ・ドメイン(hNSD)』
『3q28.4』 → ゲノム配列② → hNSDをOnにする『転写因子A』
『12q14.2』 → ゲノム配列③ → hNSDのOffにする転写因子Sを阻害する『遺伝子B』
と翻訳されることになる。この意味するとことは……。
(hNSDを沢山発現する資質を持った人間を探しているってことか)
『間違いないと思います。そして記録されているゲノム配列ですが①は標準配列と差がありません。個人差があるのは②と③の配列です。いくつものSNPが存在しています』
(スニップ?)
『一塩基多型ですね。簡単に言えば遺伝子の変異です。有名なSNPはアルコールを分解する酵素を作る遺伝子のSNPです。これでお酒の強さが決まります。配列②である『A転写因子』は『核内レセプター』というタイプなのですが。これは特定のホルモンを受けた場合に活性化することが分かっています』
論文らしき図が現れる。A転写因子《②》は通常は細胞質にある。そこにホルモンが細胞外から到達して『A転写因子』に結合する。ホルモンと結合したA転写因子は核内に移行して特定の遺伝子の発現をOnにする。その一つがhNSDというわけだ。
A転写因子《②》はホルモンが無いと働かない。OnスイッチをOnにするスイッチという説明だ。
『集められた配列②の中に高確率で複数の突然変異《SNP》が存在します。A転写因子のホルモン結合部位に存在する突然変異で、ホルモンが結合しなくてもA遺伝子が核内に移行するようになります』
(つまりスイッチが常にOnになるってことか。それでhNSDの発現が増えると)
『はい。このタイプの突然変異を生物学的には常時活性化と言います』
『これで配列②の意味も分かったね。最後の配列③は?』
『hNSD《①》遺伝子の転写を阻害するS転写因子は神経細胞で働いています。つまり通常は神経細胞ではhNSDの発現は抑制されています。配列③であるB遺伝子はこのS転写因子による発現抑制作用を強化します。ですがSNPはその働きを果たさないどころか、積極的に抑制します。変異の結果機能が0になるのではなく、むしろマイナスになる。これを支配的阻害と言います』
常時活性に支配的阻害。TRPGのスキルに出そうな専門用語だ。強そうという感想しかでない。
『常時活性も支配的阻害もどちらもかなり強力な変異と言えます。通常、異常を持った遺伝子はホモ、つまり二つとも同じSNPでなければその効果を現さないことが多いのですが、この二つのタイプなら一つだけで効果が期待できます。仮にこの両方の変異を持てば本来発現しないhNSDが発現することは十分考えられます』
実際強いらしい。話はややこしくて専門用語が多いが、要するに財団はhNSD《①》の発現を活性化する転写因子《②》を強化する突然変異と、hNSDの発現を抑制するB遺伝子《③》を阻害する突然変異を有する人間を探しているということだ。
『OK。これでデータベースの最後にあるスコアの意味が分かった。複数のSNPの組み合わせでランク分けされている』
57人のリストが色分けされる。二つのSNPsを持っている人間。一つしか持っていない人間、一つも持ってない人間だ。++、-+ or+-、--ってところか。
(古城舞奈はどうなんだ?)
『古城舞奈はA転写因子《②》が強化されたSNPだけだ。つまり『+-』この中では中の上程度のスコアということになる。おそらく最終候補には残らないだろう』
『よかった』という沙耶香のつぶやきが聞こえる。俺もホッとする。
(よし。仕事は終わりだな)
『そうだね。個人的に言えば高スコア対象を財団が狙う時に干渉したいところだけど』
(戦闘はしないからな)
『わかっている。コグニトーム上の監視にとどめるよ』
思わずそんな軽口を交わす。客観的に見れば今回の『探索』もあり得ないほどの高難易度だった。だが、TrINTチームは見事に機能したといえる。時間を確認すると、データ入手から15分しかかかっていないのだ。
上のモデルはさっきから自分の拠点とこの真上の部屋を行き来しているだけ。こちらに気が付いた様子はない。あとは引き上げるだけだ。基本的にさっきの経路を逆にたどればいい。
戻ったら今回の反省会とレベルアップ。チームの強化という意味では価値のあるセッション2だったと言えるだろう。
(何かおかしくないか?)
俺を強烈な違和感が襲った。




