5話 秘密基地
大学図書館の中央には本棚に囲まれた五角形のスペース、総合歴史コーナーがある。秘密基地めいた雰囲気のここは、分野ごとに人類の歴史の流れに沿って纏められた書籍が集められている。世界史や各国、各地域の歴史はもちろん、経済分野なら通貨の歴史や会社の歴史、哲学や心理学の歴史や、軍事の歴史などもある。
要するに人間とその社会のこれまでの流れをいろいろな角度で学ぶためのコーナーだ。これはこの大学のような総合教養大学ならではと言える。
総合教養大学は古い分類でいえば文系大学だ。その目的はSEAMの最後、つまりマネージメント(M)人材の育成だ。科学者、工学者、芸術家といったSEAが専門分野に特化するのに対し、Mは多様な知識を学ぶことで専門家のチームを組織するための人間力を陶冶する。簡単に言えば総合力で勝負ということになっている。
ちなみに、創造経済では、本にまとめられているのは昔の知識だと言われる。特に日進月歩の科学や技術の分野では本になるころには間違っていることが分かったり、前世代の物だったりする。また、芸術系では現在のトレンドが最重要視される。
つまりSとEが未来、Aが現在ならMは過去。それによりバランスの取れた社会の発展が成されるというのが創造経済の謳い文句なのだ。
もちろん建前は建前である。実際はこの大学の歴史系の講義はガラガラであり、チーム管理やプレゼンテーションなどの講義は一杯だ。図書館の横に立つ起業支援センターは熱意ある学生たちを集めているが、いまこのコーナーの閲覧席には僕しかいない。
当たり前だが総合力なんて一朝一夕で身につかない。一刻も早く成果を求められるのが創造経済《SEAM》である。つまり数値化されにくいだけでMも才能なのだ。管理ではなく経営とは人間を使った芸術。それが創造経済における凡人の最後の希望の正体だ。
それはともかく、今僕が閲覧席に重ねているのは、いわゆる諜報の歴史である。これは比較的最近充実したと言える。コグニトームにより各国で半数以上の情報組織が解体された。本来秘されてこその諜報が、いわば歴史と化した結果、その知識や内情が開放されたのだ。
今僕が読んでいるのは、元公安キャリア官僚の著作物だ。実に生々しい。諜報の歴史をまとめた本からARのリンクをたどって見つけ出した。ちなみに、これ自体は密偵ロールプレイの為に何度も行ったことだ。
これまでと違うのは、その範囲がいわゆる諜報全体に広げたことだ。なぜならコグニトームの裏に隠されている組織との情報戦は、ある意味先祖返りだからだ。
複数の組織、人間の知識を集め、それが頭の中で自然に全体像を作っていく。大枠のイメージさえとらえれば、残りの知識はおのずとその世界に配置される。特段高い知能や記憶力を持つわけではない僕が、一般的な基準で言えば高い総合教育スコアを取れた理由だ。
これまで僕が興味を持っていたのは諜報分野の中ではHUMINTである。これは人間から直接集める諜報で、刑事の聞き込みや、公安の監視組織への潜入、軍事的にはスパイなど。僕には無縁だがハニートラップなども含まれる。
要するにドラマや映画などの過去の創作物でイメージされる諜報がHUMINTである。だが、諜報にはほかにも二つ分野がある。それがSIGINT、OSINTだ。
HUMINTの知識を中心に、それらの三つの分野で総合的な諜報の世界全体を捉える。それが、僕がここに来た目的だ。
情報を飲み込み咀嚼し、そしてノートにまとめていく。知識を取り込むにつれて頭の中の諜報の世界がどんどん広がる。それが頭の中に納まりきれない臨界点に来たら次はそのイメージが収縮していく。知識と知識が勝手に関係を作る。ある知識と別の知識が同じ知識の両面だと解ったり、二つの異なる知識が一本のラインによってつながる。
それによって頭からあふれそうになった知識がぎゅっと濃縮され、世界は鮮明になっていく。そこにまた知識を詰め込み、イメージを膨張させる、やがてそれがまた収縮を始める。点の知識が線の知識に、面の知識に、そして立体の世界になっていく。
楽しい。とんでもなく脳に負荷をかけているのに、集中力が切れる気配が全くない。TRPGのサプリメントを作るってこんな感じかもしれないな。そうだ、僕は今RoDの諜報サプリメントを作っている。
図書館の一般閉館時間が来た、僕は必要な書籍をまとめてリュックサックに入れて立ち上がる。入り口でIDリングをかざすだけで貸し出し完了だ。立ち上がり、入り口に向かおうとしてもう一人閲覧机に学生がいるのに気が付いた。
「松永じゃないか。いたのなら声をかけてくれよ」
松永はここで会うことがある数少ない同級生だ。長い茶色の髪の毛を後ろで束ねた線の細い体と穏やかな表情が特徴。総合教育スコア合計値がこの大学入学者中の史上最高値で、本来なら将来のマネージメント人材として期待される。隣の起業支援センターでインターンや人脈作りにいそしめばいいのに、いつもここで社会学関係の読書をしている。どうも学外のNPOに所属しているらしいが、詳細は知らない。
「何言ってるんだ。とんでもなく集中してただろ。俺が手を振っても何の反応もしなかったぞ」
「そうだったか」
考えてみれば窓の外は暗い。午後の初めから今まで7時間近くずっと調べていたことになる。途中で一度トイレに立った記憶はあるが、それ以外の自分の動きを覚えていない。僕は松永に無沙汰を詫びると図書館を出た。
土日の内に今得たものをもうちょっとまとめてしまわないといけない。
…………。
「……ますか……さん。……香です。……【リンク】のテストと連絡の為に……」
あたまに響く声で目が覚めた。いつ落ちたのか記憶がない。テックグラスに表示される日時を確認する。土日を挟み、三日間ほぼ部屋に籠っていたようだ。顔を上げると髭だらけで二三歳老けて見える顔が黒いディスプレイに映る。机の横には図書館帰りにスーパーによって買いだめした食料の残骸がある。
「……こういう時は「今あなたの脳に直接話しかけてます」と言ってくれ」
僕は約一週間ぶりの彼女にいった。
シャワーを浴び、髭を剃り、中身を認識せずにおにぎりをコーヒーで流し込んだ後、僕はブースデスクに座った。テックグラスをVRモードに変える。ワイヤーフレームと化した世界を椅子が進み、前回のルルとのTRPGと同じVR会議室のドアが現れる。
境界を超えた瞬間、光景が一変した。洗練されたゴシック調の洋室に僕はいた。かすかに揺らぐ柔らかな光の下、三角形の分厚い木の机があり、そこに二体のアバターが座っている。
輝く金髪の美少女ルルと漆黒の黒髪の美人高峰沙耶香。二人は部屋と同じアンティーク調の椅子に腰かけている。対照的な美しい女性が並ぶ姿は、部屋の雰囲気と相まって非現実的だ。実際非現実なわけだが、この二人の容姿《APP》は現実を反映している。
僕の方はと言うと現実は非情である。ただし、座っていたステンレスと樹脂の椅子はいつの間にか同様の装飾がかぶさっている。指を這わすと、しっとりとした絨毛の感覚が伝わってくる。
机に向かって椅子をすすめながら周囲を見る。正面には分厚い光沢のある大きなカーテン。黒地に金糸の刺繍のある壁紙。世界一有名な探偵が活躍する時代のイギリスの雰囲気だ。ちなみに、サプリメントを持っている。
「やけにアナログっぽいスキンだな。19世紀末のロンドンって感じだけど」
「当たり。ヴィクトリア朝時代のロンドン、1850年代に再建された三代目ロイヤルオペラハウスのデジタルツインだ。ちなみにここは支配人室の隣のミーティングルームだよ」
ルルが指を鳴らすとカーテンが開いた。大窓からは馬蹄型の多段客席とその奥にある舞台という荘厳な光景が見える。よく見ると天井にあるのはガス灯である。本当にガスライトの時代だった。
「尤も、僕たちがここにいることはコグニトームには認識されていないけどね」
なるほど、つまりここは秘密基地というわけだ。




