1話 デートⅠ 恋人同士の会話とは? (2/2)
ニューロトリオンは脳を生きたままリアルタイムで観測できる。つまり、脳のバイオイメージングによりA.I.の質的限界が覆る。高峰沙耶香はそれが危険だと言った。
「ちょっと待って。ええっと、確かルルはコンピュータの情報処理は『広大な面積』で脳の情報処理は『小さな体積』だって言っていた。これが『A.I.の質的限界』の正体だって」
「そうですね、それは的確な例えだと思います」
沙耶香は頷いた。
「問題はその面積と体積の違いを生み出す仕組です。まず、科学的には脳もコンピュータも原子で作られた情報処理回路であることには変わりはありません」
「ああ、それはそうだよな」
「脳を作っている神経細胞も、コンピュータを作っている電子素子も基本的にはスイッチです。オンかオフかの二つの状態しか持ちません。情報の入力、処理、出力はこのスイッチ、オンとオフの組み合わせでなされます」
「ニューロンの電流が流れているのがオン、流れていないのがオフだよね」
学会で電流に応じて光る培養ニューロンを思い出す。確かに、あれだけ見れば脳は確かに電気回路だ。ならば何が違うのか。何が脳を特別にしているのか。
「電気回路として見た時、ニューロンと電子素子の違いは一つ当たりの入力と出力の数です。トランジスタが二つの入力を受けて一つの別のトランジスタに出力するのに対して、ニューロンは一万の入力を受けて、百以上の別のニューロンに出力します」
「けた違いということか。ええっとじゃあ、もし一つのニューロンを電子回路で作ろうとしたら、入力側だけで最低一万個のトランジスタが必要だってこと?」
「そうです。ニューロンはその一万個の入力を細胞本体で時間的、空間的に合成して、オンかオフの出力を決めていますから、実際には百万個のトランジスタでも到底足りません」
「……つまり、同じオンオフの回路でも複雑さが全く違うと。ええっと、でも確かディープラーニングだったか。あれは神経回路を真似しているって聞いたことがある」
「ディープラーニングはソフトウエアを使って神経回路をシミュレーションしています。それも脳に比べれば極めて単純化されたものです。それでも二次元的な情報処理、簡単に言えば画像認識では革命的な進歩でした。コンピュータには不可能と言われていた画像の識別で、最終的には人間を超えました」
「膨大な写真から猫を見つけるアレのことかな」
「そうです。一つのニューロンを簡易的にシミュレーションするのに膨大なコンピュータ回路が必要ですが、コンピュータの動作速度はニューロンの一万倍以上ですから。つまり、視覚という単一種類の情報処理なら人間を超えることが出来る。広い面積というのはそういう意味です」
「ええっと、待ってほしい。…………つまり神経回路を簡易的にシミュレーションしただけで、人間の脳の能力の一部は模倣出来た、いや越えた。でも、A.I.の質的限界がある。広い平面は立体にならなかったってことかな」
「はい。ディープラーニングの進歩でコンピュータが脳と同じ真の知性を獲得できるのではないかという期待が一時高まったんです。そこで、大規模なコンピュータシミュレーションが行われました。今でいえばコグニトームタワーの余剰計算力の半分を使って百万個のニューロンをシミュレートしたんです。ですが結果は失敗でした。問題になったのはその回路をどうやって制御、評価するか。わかりやすく言えばプログラミング言語を設計できなかったのです。ちなみに、私達の脳の中にあるニューロンは一千億個です。単純計算で一万分の一、実際には一億分の一以下の単純な回路ですら、その動かし方が分からなかった。いいえ、中で何が起こっているのか人間には分析できなかったというのが正しいかもしれません」
一万個のつながりを相互に持つ回路の制御、なるほどそれは確かに想像もできない。数個の繋がりを制御していた従来のコンピュータとは量というよりも質的に別物だというのは何となくわかる。そして、世界規模のコンピュータを使って、人間の脳の十万分の一の回路も扱えなかった。
コンピュータは人間のような真の知性を持たない、その漠然とした知識がリアリティーある数字に置き換えられていく。しかし、そうなると今度は……。
「でも、人間はそれを頭の中でやっているんだよな。今だって」
この知能判定《INTロール》何回成功させなきゃいけないんだと思いながら考える。
「はい。つまり一万の入力と数百の出力を組み合わせて動く回路の制御方法を見つけるには、脳がどのように情報を処理しているのかの分析。つまり、脳のリバースエンジニアリングが必要ではないかという話になります。特に、人間の立体知性の中核である意識のです」
「なるほど、意識というのは五感の多種多様な情報を一つの世界として統合するだったっけ」
しかも、やろうと思えば全く違う世界を思い浮かべ、その中で全く違う人間としてふるまうことを想像できたりする。そして、それを複数の脳の間で会話で共有する。改めてTRPGってとんでもないな。世界で一番面白いゲームなわけだ。
「つまり、多種多様なデータというよりは、そもそも最初から『世界』を認識するようにできているのが意識ってこと?」
TRPGをヒントに何とかそうまとめる。TRPGプレイヤー的には世界というのは単なる情報の集合ではなく、世界としか言いようのない物だ。沙耶香は一瞬きょとんとした後で、繰り返し頷いた。
「そうです、その通りです。ですが、意識の神経細胞レベルの解析は技術的には途轍もない困難です。脳は一千億のニューロンで構成され、常時感覚器からの多彩な入力を受け総体として統合されています。コンピュータのように特定の機能に切り分けることは困難です。楽観的な予測でも数十億のニューロンの活動をリアルタイムにとらえることが必要と考えられています。しかも、脳は頭蓋骨の中で立体的に存在し、血液が巡回し、温かい。つまり、ノイズだらけで個体差もある。測定対象としては最悪です」
「なるほど。思い出したよ。ええっと、創造経済の講義で聞いたことがある。「A.I.の質的限界」と「意識のハードプロブレム」の繋がりがあるって」
「はい。工学上の最大の問題である『A.I.の質的限界』と生物学上の最大の問題である『意識の問題』は表裏なんです。まとめて『最終課題』と呼ばれることもあります」
将来この子に恋人が出来たとしたら、そいつはとんでもなく大変だと保証しよう。INTロールし過ぎで精神力《MP》が枯渇するなんて聞いたことがない。
「学会であの蛍光タンパク《GeVIs》に高峰さんが着目したのはそこらへんか。ただし、最終課題の解明にはあれでも全然足りない。本来なら」
「はい。光を使う限りは」
「…………あの粒子は脳の神経活動から生まれて、しかも、他の粒子と通常は相互作用しないんだったよね。しかも意識が鍵。……確かに脳の活動、その中枢を透視できるようなものか」
やっとRoDとつながってきた。学会会場で、モデルの頭の中のニューロトリオンを見た僕はピンとくる。レントゲンで骨を映し出すように、ニューロトリオンを使って脳の回路の活動を映し出すのだ。
「私の考える危険性は二つです。意識の謎を解き、そのアーキテクチャをコンピュータに移植すれば、人間の知性を越える超知能を生み出せる可能性があること。もう一つは、生きた人間の意識を自由に操作できる可能性です。これは自分の脳を強化することで人間の知性の限界を超えることも、他者の脳を完全に操作することも意味します」
「どのシナリオも結末は一緒みたいだな」
人工知能による人類の支配。一昔前の映画の筋書きだ。現代物やSFのTRPGの大規模キャンペーンの定番だったという舞台設定の復活だ。最悪なことに現実世界がその舞台で。
「つまり、大きな立体知性だな。もしそうなったらほとんど神様だ。絶対に勝てない」
「はい。私とルルさんの意見も同じです」
もしもシンジケートが人間の脳が生み出すあの粒子に本格的に目を付け始めたら。それはコグニトームを支配する程度の話ではない。“俺”が戦ったあのモデルの力ですら、ただの実験台ということが否が応でも理解させられた。
「参ったな。今の話を聞くとこのゲーム、難易度調整が本当に狂ってる」
「そうですね。状況は相当厳しいです」
テーブルで向かい合う僕たちは同時に黙り込んだ。席の横を通りかかった女子中学生の二人組が、こちらをちらっと見て慌てて目を反らした。別れ話でもしているみたいな雰囲気になってる。これはまずいかもしれない。
「そういえば、君もこういうところはよく来たのかい。ほら高校のときとか」
露骨に話を変えた。過酷な設定を再確認するだけの打ち合わせだったが、現時点ではこれが限界だ。ならばなおさら隠ぺい工作はしっかりしないといけない。
2022年3月21日:
次の投稿は3月24日です。
次からはデートになります。きっと……。




