エピローグ セッション完了
「ルル。状況はどうなっている」
正体不明の悪寒に震える体を押して俺はルルとの通信を開いた。
『ボクの管理する部分においては計画通りだ。まず黒崎亨も高峰沙耶香も現在位置は不明。この部屋もサーチされていない。君たちは今敵の監視の目からは自由だ。黒崎亨のIDは当然登録されたが君本来のID、つまり白野康之との間にいかなるつながりも感知されていない」
「そうか、つまりここまでは上手くいったわけだな」
俺に関してはIDが消滅すればすべてが消える。高峰沙耶香に関してはこの後の偽装工作次第だが、それができる状況にはある。後の問題は……。
「ただしこのままだと君は死ぬ」
その言葉を聞いたとたん、さっきから感じていた悪寒がひどくなった。湧き上がる恐怖を押さえつけ「理由は?」と聞く。最後まで黒崎亨をやり遂げると決めた、彼ならこの状況で冷静さを失わない。
『最後に君が受けたのはいわば毒の設計図なんだ。君の体内のいくつかの酵素を変質させて神経を侵害する化学物質を作らせている。生成された毒が君の体に徐々に広がっている。ちなみに、この毒は最終的に窒素と二酸化炭素に分解される』
「外傷なし。証拠なしの毒殺とは恐れ入る。対処方法はあるのか?」
『ある。これほど精密な毒は対象の性質に大きく依存する。まず、君のニューロトリオンの強さにより中枢神経への初期の浸透が防がれた。毒の効果という意味でも君の血中のテストステロン濃度は毒の作用条件に最適じゃない。要するに一般人女性である高峰沙耶香用なんだ。君の意識がここまで保たれたのはそれが理由だ。ただし、一度作られた毒はいずれ中枢に届く。そうすると逆に致命的な強さの神経障害を始める。その激しい発汗がその印だ』
「相変わらず難しい話だな。具体的にはどうすればいいんだ」
『毒が中枢に達しないように排出を促進して、後は分解するまで君の体を持たせればいい。それにはおそらく彼女の協力が必要だ』
「ルルーシアさんから通信!? 出ていいの?」
突然虚空に話しかけた俺を心配そうに見ていた高峰沙耶香が言った。俺は何とか顎を動かした。しゃべるのもつらくなってきた。
「……おそらく発汗は交感神経の……による過剰……。……発汗自体は体の防御でもあるはずです……。でも、これが進むと電解質のバランス崩壊で症状が進行するリスクが……」
俺の頭の中をルルから沙耶香への専門用語が飛び交う。目の前で深刻な顔をして本人には意味不明の医学用語を並べられるのはひどい恐怖だ。
「……条件は分かりました。…………ここで入手可能なもので…………使えるものがあるとしたら……」
意識を保つことだけに集中するが、だんだんと会話が遠くなる。寄り添っていた暖かいからだが離れ、俺はベッドに横たわる。
かすれる視界に高峰沙耶香がドアに向かうのが見えた。伸ばそうとした手はピクリとも動かない。ドアの閉じる音と共に、意識が消えた。その瞬間の自分がどちらだったかはわからない。
…………
悪夢を見た。夢に相応しくまるで整合性のない内容だ。俺は砂漠でおぼれている。体からはどんどん水分が失われるのに、口の中に無理やり塩気のある水が流れ込む。妙にぬめ付く薄い海水が、繰り返し注ぎ込まれるのだ。その水が生暖かいのは、ここが砂漠だからだろう……。
…………
アラームの音が脳髄に響いた。覚醒に向かおうとする意識が途中で腰砕けになる。体がひどく重い。辛うじて半分開いた瞼の向こうに、黒髪の女性の顔があった。そういえばここはどこでこの子は誰だ……。
昨日は何かとんでもないことがあった気がするんだが……。混線した記憶がまとまらない。辛うじて認識されたのは生理的な欲求である猛烈な喉の渇き。
「……ずっ、み……、……ず」
「わかっています。今すぐに」
若い女性はベッドチェストに置いてあったペットボトルを手に取ると、まるで見せつけるように自分が飲んだのだ。あまりにもひどい仕打ちだ。美人だからって許されることじゃない。そう思った次の瞬間、彼女の顔が迫ってきた。
体を抱き起され、有無を言わせず唇をふさがる。そして液体が流れ込んでくる。
パニックになった僕は反射的に口を閉じる。だが、彼女の指が顎に掛ると、閉じた顎は簡単に開かれた。生暖かい液体が口の中に流し込まれる。乾いた喉にそれが届く。一旦受け入れさせらえると、その薄い塩味のある液体は甘露だった。
抵抗をやめた僕は流し込まれるままにそれを飲み込み。そして少しでも多く欲しいとばかりに差し込まれた漏斗のような柔らかい何かに吸い着く。
「……!! むっ、むぐっ」
女性が無理やり唇を引きはがした。そして、自分の唇を追って身を起こした僕をまじまじと見た。
「…………もしかして、もう体動くの?」
「えっ、ああ、うん。なんかすごく体が重いけど、なんとか」
俺は右手の指を動かす。
「自分で飲めるならそういってください」
彼女は顔を真っ赤にしてこちらにペットボトルを突き出した。不当な非難じゃないだろうか。今のはどう考えても僕が襲われたんだが。そう言おうとした時、彼女が誰かの記憶がよみがえった。そうだ、昨夜僕らはここに二人で逃げ込んで……。
「ええっと、その、どうしてこういう状況になってるんだっけ……」
「状況はって。ですから黒崎さんの解毒です」
水で薄めたスポーツドリンクで一息ついた僕は聞いた。耳まで赤くして説明する高峰沙耶香の言葉を総合すると、どうやら僕は一晩中彼女の介護を受けていたらしい。そう言われてみればさっきの唇の感触と飲まされた液体の味は、あの悪夢のものと一致する。
「そ、それはなんというか、お世話になりました」
「生理学的見地から必要な介護的行為を行っただけですから。黒崎さんこそ不快だったのでは。ずいぶん苦労しました」
彼女はそっぽを向いたまま答えた。確かにこちらとしては悪夢を見ていたわけだから、ずいぶんと世話を掛けたのだろう。僕の口を開かせるのに手慣れていたわけだ。
つまりあれだ、さっき僕がやったことは懸命に僕を助けようとしている相手に、強烈なセクハラをかましたことになるような……。
「と、とにかく。そう、助けてくれてありがとう。おかげでこの通り体は動くようになった。さっきのは混乱していたとはいえ、失礼しました」
「…………私も回復したことを喜ぶべきでした。それに、お礼は私の言うべきことですから。ルルさんから聞いています。私を助けることを決めたのは黒崎さんだと」
「いや、巻き込んだのはこっちだし。それにあれは僕の自己満足に近いわけで」
実際彼女の協力が無ければロストしていただろう。
「自己満足で命を懸けるんですか?」
「昨夜の僕はまあ、そういうキャラだったんだよ」
「でも……。そういえば昨夜とはずいぶん雰囲気が、言葉遣いもなんだか頼りない……。そもそも黒崎さんこんなに若かったですか?」
「ああそうか、今の僕はある意味初対面か。ええっと、どう説明したものか……」
僕が五歳若返った理由、RoDをどう説明しようか迷っていると、
「おはよう。そっちの対処は無事終わったみたいだね」
頭の中に金髪の少女の声が響いた。
「ルルか。まあ、何とかなったみたいだよ。残念ながらほとんど覚えてないけど」
「そうだろうね、ボクとの通信が切れる時の光景は大変だったからね。無理やり君の口にスポーツドリンクを飲み込ませようとする沙耶香と吐き出そうとする君。二人の口の間でぐちゃぐちゃの液体が何往復もして、最後には沙耶香が無理やりベッドに押さえつけるようにして」
「やめてください。あれは介護的行為です。それ以上の意味はないので」
「確かに献身的だったね「私が絶対助けますから」だったっけ」
「ですから、それは恩人に対して当たり前のことです」
悪夢の正体がルルにより生々しく『描写」される。高峰沙耶香が止めようとしても、ルルは空気を読まない言葉を続ける。
「それよりもルルがこうやって戻って来たってことは」
「ああ、そうだった。今回の案件だけど、IDリングと本人の協力で沙耶香のターゲットスコアはかろうじて水面下に沈めた。沙耶香のアイデアは五年前に故人となったある科学者の遺稿がソースということにした」
世界中の情報を探索するインビジブル・アイズは当然人間が過程を追えないスピードと量の情報処理を行う。判断の理由は莫大な計算により人間には物理的に判別できない。だからこそ、情報が本物かどうかをモデルが確認している、そういうことらしい。
「画像認識で猫を判別させるアルゴリズムがあるだろ。あの時コンピュータが認識しているのはあくまで二次元上の猫パターンであって、人間のように世界の中に存在する猫という存在を認識してるわけじゃないんだ。だから、敵対的ノイズという手法で、人間には猫と分かる画像をオーブントースターと誤認させたりできる。その逆バージョンだね」
という高峰沙耶香が深く頷いていた専門的説明はさっぱりだったけど。
「君がモデルのDPCを破壊したことも大きかった。戦闘記録が財団に渡っていたらどうしようもなかっただろうね。レアどころじゃない超新案件の発生だからね」
「DPCと言えばあのモデルの男はどうなったんだ……」
「意識不明で病院のベッドの上だよ。君が破壊したのはDPCだけだけどDPCと脳の神経活動がかなりリンクされていたからね。意識が戻るとしても時間がかかるだろう。財団はずいぶん困惑しているだろうけど、他派閥の新技術をまず警戒するはずだ」
こちらには敵の不幸を心配する余裕はない。残酷なことを言えば回復しないことを祈るべきなのだろう。現状でも、いわば不発弾を抱えていることになるのだ。
「もう一つ。高峰沙耶香に執着していたメンバーの記憶はどうにもならないんじゃないのか」
「その通りだね。葛城早馬が今回の顛末に納得しているとは思えない。とはいえ彼の今の権限でDPFやモデルを独断で動かす権限はない。貴重なDPの無駄遣いは他の派閥との競争に後れを取ることになるからね。そういう意味で今回のことは彼の失点になっている。しばらくは動けないだろう」
こっちも不発弾は残っているか。いや、相手は邪神級だ。とにかく日常に帰れただけでも良しとすべきだ。
「とにもかくにも何とかシナリオクリア、ということだな」
「そうだね。君に加えて沙耶香も卓に参加してくれることになったし。目出度しだね」
「………………何の話だ? テストプレイは戦闘パート含めて完遂しただろ。大体彼女は一回限りのNPCのはずじゃ」
「沙耶香から聞いていない? 彼女はいわばNPC兼サブマスターとして参加してくれるそうだ」
「サブマスター!?」
「今回のシナリオでもそうだったけど彼女には君にはない高度な科学的知識がある。最適の人材だ」
「それは確かに……。いや騙されないぞ。これ絶対連続シナリオの準備だよな」
「不満ならRMが止めたのに戦闘パートに突進した黒崎亨に言うべきじゃないかな。しかもそのキャラクターは沙耶香に「君の道は俺が守る」って約束したらしいじゃないか」
「はい。ですから私も出来るだけのことはしないといけないです」
「い、いや、あれは「今は」って……」
「今後の君たちの連携の為、単なる大学一年生とお姫様が一緒にいる理由が必要だ。そのためにまずやって欲しいことだけど、君たちは今日これから……」
話を進めるルルの言葉に、僕は絶句した。
「じゃあそういうわけで後はよろしく。必要な連絡はこちらから随時するから」
ルルは一方的にそういうと通信を切った。俺は高峰沙耶香に「どういうこと?」と尋ねる。
「私達二人が一緒にいてもおかしくない情報痕跡が必要ということらしいです。つまりですね…………私達は昨夜その、ここで一夜を共にした後に…………」
「いやわかった。要するに後付けの『カバーストーリー』作りだ」
あのクソマスター。相変わらず勝手なシナリオを作りやがって。僕の恋愛技能は『初期値』といっていい。そもそもTRPGシナリオに恋愛的要素は鬼門だ。共演を切っ掛けに結婚する芸能人じゃあるまいし、人間関係に黒歴史を生み出すだけなんだから。
それを現実で、それもこんな美人相手にできる気がしない。………………いや待て、そうだ相手はこれだけの美人だ、ならばスキルは高いのではないか。
「それで、デートっていうのはどこにいけばいいのかな」
早速お助けNPCに頼ることにした。だが、彼女は困惑した顔で僕を見る。
「ルルさんが言うには「こういうのは男が決めるのが統計的に自然で隠蔽がやりやすい」そうです。私も男の人と二人だけで出かけるなんて経験ないですから、お任せします」
推奨技能を誰もとってないパターンだった。考えてみればこの子もかなり特殊な青春を送ってきたような。しかも彼女は、お任せしますって言いながらどこか期待する目でこちらを見てる。これ期待を外したら……。
従妹が言っていたことだが、女の子の「どこでもいい」は(私の為に最高の選択をして)って意味らしいからな。
「……ちょっと考えさせてくれ」
まるで昨夜のように背中に汗をかきながら、僕は今日のロールプレイプランを考え始めた。このキャンペーン、間違いなく前途多難だと思いながら。
2022年2月20日:
『深層世界のルールブック』セッション1完結です。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
TRPGのルルブが現実に存在したら実質魔導書では?
という発想から書き始めた小説ですが、いかがだったでしょうか。
ブックマークや評価、いいねや感想などいつも励みにさせていただいています。
誤字脱字のご指摘本当に助かっています。
今後の予定ですが現在の所『セッション2』の開始時期は未定です。
三月中に開始できればと思っています。
予定が決まればここに追記、または活動報告を出すつもりです。
2022年3月13日:
お待たせしました。セッション2『三毛猫を探せ』は3月15日(火)の開始です。




