9話 エリート同士
「高峰君。間に合ってよかった。この前のオファーの話をしたいんだ」
スタンド席に向かおうとした俺達の前に白いスーツの優男が立った。年齢は俺より少し上、二十代の半ばくらいか。科学者というより二枚目俳優のような容姿だ。参加証には葛城早馬という名前、横には上杉のロゴが入っている。
「その件ならお断りしたはずです。上杉なら人材に苦労はしないでしょう」
「僕の直轄プロジェクトはその程度の人材では足りないんだ。複数のドメインを組み合わせる分子デザインはセンスの域だからね。待遇は僕が本社CEOに掛け合って君の才能に相応しいものを約束する」
切り上げようとする高峰沙耶香に男は滔々と語る。それにしても二十歳半ばで上杉のトップに直訴できる男と、そのオファーを受ける18歳の大学生か。まさしく創造経済の世界だ。
ちなみに男の方は俺は眼中にないらしい。そのこと自体はどうでもいい。問題は貴重な残り時間が取られること。こいつがここに現れた目的だ。明らかに高峰沙耶香目当てにみえるが、万が一がある。いや、この距離なら見ることも可能か……。
俺は動きを止め、男の頭部に注目する。灰色になった視界で、網膜に反応する見えない光を凝視する。
「ちょうどランチタイムだ。うちの控室で食事をしながら契約の話を」
「以前も言いましたが今は他のプロジェクトにコミットする余裕はありません。自分の研究に手いっぱいですので」
「研究というとクオリアの理論を神経生物学上に構築するというやつかな」
「……ええ、そうですが」
「野心的な目標であるのは認めるよ。でも、最近の君の実績を見るに、半年かけても成果が上がっているようには思えないな」
「まだ半年です。いえ、今そのことを議論するつもりは」
「一つの問題に見切りをつけるには十分な時間だ」
両手を広げてしゃべる男には異常はなし。そういう意味では警戒の必要はないようだ。それに話を聞く限り目的は高峰沙耶香で間違いない。
「組織の時代が終わって個人の時代になったと言われて久しい。確かにもはや組織内分業、あるいは組織間分業の時代じゃない。今は組織と優れた個人による有機的チームの時代だ。君のような優秀な才能の持ち主こそ大きなプロジェクトに貢献すべきだ」
なるほど、こういうのがSEAMのMというやつか。突出した才能を組織する管理者。特別な才能を持たない人間の希望だ。“僕”の大学でもあわよくばと狙っている学生は多いだろう。もっともその希少さは他のSEAと変わらない。
『半年』は長いか。SEAMのタイムスケールはそうなんだろう。『半世紀《GFP》』の物語とは時代が違うことは俺にすらわかる。その時代についていけない側が何を言おうと負け犬の遠吠えというやつだ。
この事態は彼女の問題。俺が関わる理由はない。いや、そうとも言い切れないか。俺はこちらに向けられたブースからの視線に気が付いた。なるほどそういうことか……。
「それよりも私は今――」
「僕の考えではクオリア概念は幻、疑似問題だよ。解けない、いや存在しない問題に固執するのは才能の浪費だ。実績が下がればコグニトームリソースも減るだろう」
「私が何を研究するかは…………」
「相手の才能を認めているなら、その判断も尊重したらどうだ」
何とか切り上げようとしていた高峰沙耶香がたまりかねたように反論しようとした。俺は爬虫類めいた眼光を遮るように、高峰沙耶香の前に出た。
「なにかな君は?」
「ここに取材に来たフリージャーナリストの黒崎亨だ。彼女の現在の仕事のパートナーと言ったところかな」
「フリージャーナリスト? ほう、学会までわざわざ取材とは感心じゃないか」
セリフと同時に男の口角がくいっと上がった。IDからジャーナリストとしての実績を調べたか。もちろん俺の表の実績は貧弱なものだ。必要ない偽装コストだからな。
こちらに向くのは路傍の石への視線。普段の僕なら彼の名札に表示される時価総額にひるむだろうな。だが、あいにくだが黒崎亨には効果はない。
俺が恐れるのはもっと別のことだ。一つは時間。もう一つは……。
「お察しの通りしがないブロガーだ。それでも道理を忠告するくらいはできる。彼女の能力を買ってるなら、彼女の判断も尊重すべきだ。それになにより今はこちらが先約だ。どうも先ほどから時間の大切さを説いていたようだが?」
一瞬で葛城の表情が歪んだ。俺を睨む目は、私とお前の時間は同価値ではないといっている。自分が特権階級と信じて疑わない態度。悪徳貴族と違って才能と実績で裏打ちとしているから始末に負えない。
こいつがどんな哲学を持っていようと自由だが、それが俺の信念とぶつかったら話は別だ。密偵はありとあらゆる情報を集める必要がある。信頼できる情報提供者は何よりも貴重な存在。間違っても蔑ろにはしない。
それが黒崎亨の信条だ。密偵としての戦略も戦術もそしてスキルもすべてその上にある。どんな綿密な計画も強いスキルも、土台となるキャラがブレたらその力は半減だ。
今のお前の行動を見逃したらロールプレイが崩れる。それはRoDにおいて最大のリスクだ。いや、こう言い直そう。芯のぶれた人間ほど”弱く”そして”目立つ”ものはない。
視線の圧力が増す中、俺は平然と見返す。大体、今の俺の状況で”ただ”のエリートにビビる理由があるか?
小さな舌打ちと共に圧力が消えた。
「君の仕事を邪魔するわけにはいかないね。今日の所は引かせてもらおう」
葛城はくるりと高峰沙耶香に振り返り言った。すっかり優男に相応しい表情にもどっている。そして俺には視線もくれずに踵を返した。自分の相手はあくまで同じSEAMというわけだ。
「すみません。私が切り上げさせるべきでした」
「気にしなくていい。仕事の一部だ。ほら」
目でブースを指した。女性スタッフが無言で通り過ぎる葛城に慌てて頭を下げた。さっき高峰に対応していたスタッフだ。本社幹部ご執心の人材が子会社に借りを作りました、そう伝えたのはあの女性だろう。
高峰沙耶香が俺の求めに応じてベストの仕事をしたことがトラブルにつながったと言える。
「それに、君と違って上杉がクライアントになる確率なんて欠片もない。しがないブロガーだからね。それよりもこっちの仕事の続きだ」
俺は改めて彼女を連れてスタンド席に上がった。会場を見渡せるスタンドの中段に二人で並んで座った。
「次は取材対象を決めるということでしたね。……そういえばポスターである理由は何でしょう? 一般的に注目を集める研究の多くは口頭で発表されますが」
「無名ジャーナリストの“記事”には掘り出し物が必要だ。マイナー結構。未来のGFPが埋もれているかもしれないだろ」
「掘り出せればそうですね」
「そこは優秀なアドバイザーにも期待している」
単語には相変わらず棘が見えるが、気のせいか態度が少し柔らかくなっている。とにかく仕事だ。これから始まる膨大な発表から取材対象を絞り込むのは間違いなく難問だ。
高峰沙耶香の優秀さはさっきので十分わかった。仮に依頼書の内容をすべて明かせば300以上の演題から正解である“一つ”を見つけ出してくれるかもしれない。
当然却下だ。ニューロトリオンなんて非科学的なものを信じさせることが出来ないというのもあるが、機密保持の第一原則は知る人間をなるべく少なくすること。彼女がニューロトリオンの存在に万が一にも近づき、それがシンジケートに漏れたらシナリオ難易度が跳ね上がる。
彼女は優秀な『お助けNPC』ならばそれを活かすのは俺の役目だ。彼女にはあくまで生物学上のアドバイザーに徹してもらう。トータルとして見たらそれが一番だ。その為には、どうやって話を進めるかだが……。
改めてテックグラスにRMからの依頼書を表示する。
ターゲットは午後のポスター発表の三百を超える最先端研究の中にある、たった一つの遺伝子。ヒントは単位すらついていない無機質な三桁の数字が三つ。
『394―496ー632』
人間だけで三万の遺伝子があると聞いたことがある。文字通り取り付く島もない。だが、この情報をバイオイメージングという文脈に載せると、その素性が見えてくる。
2022年1月30日:
次の投稿は明日です。




