27 ヴィンセント25歳 01
「くっ……はあっ…………!」
息苦し水中から逃れるような感覚でやっと息を吸ったエルは、びっしょりと汗をかいた状態で飛び起きた。
(ここは……?)
見たことがない場所だ。男爵邸よりも豪奢な内装の広い部屋に、ふかふかのベッド。
先ほどは崖から落ちて、力いっぱいに魔法を使ったはずなのに。
(まさか、あの状況から助かったの?)
崖から落ちて無事だったことにも驚きだが、あの時はヴィンセントがエルにとどめを刺そうと追ってきていた。
どちらにせよ無事では無かったはずなのに。
そう考えたエルは、ふと自分の腕の感触が心もとないことに気がついた。
(エルヴィン……! エルヴィンがいないわ!)
ずっと大切に抱きかかえていたのに。辺りを見回したがどこにもいない。
我が子を助けたい一心で、あの時は魔法を使った。あの魔法は結局、どうなったのか。
その時、がちゃりと部屋のドアが開く音がして、メイドと思しき者が入室してきた。
「あのっ! 赤ん坊を――」
そう言いかけたエルよりも、メイドのほうが大声を上げてエルの元へと走り寄って来る。
「エルシー皇妃様! お目覚めになられたのですね!」
「えっ……?」
(エルシーって確か……)
「バルコニーから落ちて一週間もお目覚めにならなかったので、ずっと心配していたんです!」
(この人、何をいっているの?)
「あの、待って……」
状況を整理したくてエルはメイドを止めようとしたが、彼女は「お医者様をお呼びしてきます!」と走り去ってしまった。
「どういうこと? エルシー皇妃って、悪役皇妃の名前じゃない……。まさか」
エルはおそるおそるベッドから出ると、ふらふらする身体をなんとか動かしながらドレッサーの前へと向かった。
そして自分の顔を見て、悲鳴を上げそうなほど驚いた。
そこに映っていたのは、黒髪短髪に変装したエルの姿でも、いつもの薄茶髪のエルでもない。
美しく波打つ金髪が腰まで伸びている女性。エルはこの女性を知っている。
(エルシー皇妃……)
『悪役エル』の人生を終えた次は、『悪役エルシー』に憑依転生したというのか。
エルは力が抜けたように、床へと座り込んだ。
――悪役エルシー皇妃。
彼女は、ヴィンセントの父を支持するクロフォード公爵家の令嬢だ。今年で二十二歳になる。
小説では、父親を殺し皇帝となったヴィンセントが、簒奪ではないと示すために、父親側の派閥から皇妃を迎えることにする。それが、エルシーだった。
エルシーは結婚前から、ヴィンセントに想いを募らせていた。彼が自分を選んでくれたことを喜んだが、派閥バランスを保つためでしかなかったのだとあとで気がつき、ショックを受ける。
(この身体にもわずかだけれど、記憶が残っているわ)
一週間ほど前におこなわれたエルシーの誕生日パーティー。彼女にとっては大切なその記念日に、夫であるヴィンセントは現れなかった。
そのことにショックを受けたエルシーは、バルコニーから落ちて自殺を図ったのだ。
(これは、小説にも出てくるわ。皇帝を困らせるための自演として書かれていたけれど、あなたは本気だったのね……)
彼女も、エルと同じ。小説のために悪役に仕立てられた一人すぎない。
その身体へとエルは乗り移ってしまった。また報われない死が待っているというのか……。
「陛下はお忙しいそうで、お見舞いへは来られないそうだ。妻の心配もしないとは、なんというお方だ!」
不満げにそう述べたのは、エルシーの父であるクロフォード公爵だ。
彼は、エルが医者から診察を受けている間に、驚く速さで皇宮へと到着した。
泣きながら喜んだ公爵は、「陛下にもお伝えしなければ」と喜び勇んで部屋を出て行ったが、このありさまだ。
(やっぱり私の夫は、ヴィーなのね……)
エルシーの記憶で、なんとなくこれまでの経緯は把握したが、実際に生きている者から伝えられると複雑だ。
目覚めた時のエルは、崖から落ちてすぐの出来事のように感じられたが、あれからすでに三年が経過している。
三年前。ヴィンセントは突如、反旗を翻して父親を殺し、皇帝の座に就いたという。
エルを殺し、父を殺し、彼はあっという間に、小説のストーリーの軌道修正を図ったのだ。
その後は、小説と同じだ。「簒奪だ」と騒ぐ父側の派閥を大人しくさせるために、エルシーと結婚し皇妃として迎えた。
けれど、エルシーに欠片ほども興味をしめさないヴィンセントによって、エルシーは死にたいほど追い詰められた。
それでも、このような夫婦関係であることには、エルにとっては好都合だ。
「私たちは政略結婚ですもの。これからは公務だけに専念しますわ」
「しかしお前は、陛下のお子を産むのが望みだっただろう……」
「子供は……」
(エルシーには悪いけれど、正直もう、ヴィンセントの子は生みたくないわ)
エルを憎んで、子どもまで殺そうとするような人だ。
あの後、エルヴィンはどうなったのか。エルが最後の力を振り絞って使った魔法は、エルヴィンを助けてくれたのか。それともエルが憑依転生するために使われてしまったのか。
思いつめた表情で考えているエルに、公爵は心配そうに声をかける。
「皇子様を気にしているのか? 彼は私生児だ。お前が産めば、皇太子の座はこちらのものさ」
(私生児の皇子? もしかしてエルヴィンは生きているの?)
「皇子様はどこにいるの!」
「皇子様なら皇子宮だが……。エルシー。皇子様にだけは手を出してはいけないよ」
「そんなことしないわ」
エルシーは追い詰められるととんでもない行動にでるが、エルは違う。
けれど父親はそれくらいの言葉では信じられないのか、エルの両肩をがっしりと掴む。
「お前も知っているだろう。陛下は、皇子様を引き取るために父親まで殺めたお方だ」
(えっ。それが父親を殺した理由なの……?)
小説では、祖父を殺された恨みが理由だった。
これまでにも辻褄を合わせるためにストーリーが何度もかわっている。それでも、これはおかしい。
彼は、エルとエルヴィンを殺すために、兵を差し向けたのだから。





