第2章 第32話 夜曲・SOS
嘔吐描写注意です!
身体が震える。
頭がクラクラする。
視界が白くなる。
気持ちが、悪い。
「あっ……」
ボールが飛んできた。あたしの左約三メートル。ちょっと右にずれて落ちる。
わかってる。わかってるけど、動けない。身体が言うことを聞いてくれない。
「やったね音羽」
「さっすが流火ちゃん! 久々なのにキレッキレのトスだねっ!」
スパイクを決めた音羽ちゃんと流火が右手でハイタッチを交わす。ブロックも反応できていなかったしいい攻撃だったと思う。なのに、
「おいこら音羽ぁっ!」
「ひっ」
怒号。
「何でリベロがいる場所に打ったっ! もっとコース狙ってけぇっ!」
「……うーす」
「返事ははいだろっ! 交代させんぞっ!」
「はーい」
「ったく……」
こわい。
監督が怒鳴る度に頭がおかしくなりそうになる。
なんで音羽ちゃんが怒られるの。
決まったんだからいいじゃん。
そんなに怒ったらかわいそうだよ。
ほんと。なんで。
もうやだ。
「おいこら輪投ぇっ!」
「ひぃっ」
また。
また怒られる。
もうほんといや。
やだやだ帰りたい。
もうバレーなんてやりたくない。
「環奈さん?」
「っ、ごめんなさい!」
誰かがあたしに話しかけている。やっぱり近田監督かな。
「環奈さん、交代よ。向こうのミドル、サーブミスしたから」
「ごめんなさいっ! ごめんなさいっ!」
とにかく謝らないと。とりあえず謝ってどうにかしないとまた怒られる。
「……さっきはごめんね。ボクたち三年が何か言い返せればよかったのだけれど、朝陽今にも向かっていきそうだったから」
「ごめんなさいっ! ごめんなさいっ! ごめんなさいっ!」
あたしなにミスしたかな。とりあえずレシーブミス。あとぼーっとしてた。声も出てなかったしあと色々。まぁ今はどうでもいい。まず謝るのが一番大事なことだ。
「……環奈さん、ちょっとお水買ってきてくれる?」
「ごめんなさ……」
「お水、ゴー!」
「ひっ」
叩かれた! いや、背中押された? わかんないけどとにかく急がないとっ!
確か水……水買ってこいって言われたような気がする。この辺に自販機あったはずだけど……。
「……あれ?」
自販機の前に立って、気づいた。
「あたしお金持ってないじゃん……」
なにやってんだあたし。財布も持たないで時間を無駄にしたなんてまた怒られる。
……ん? 誰に怒られるんだっけ。そりゃまぁ近田監督だけど……あれ? ほんとに監督か? にしてはやけに優しい言い方だったけど……あっ。
「胡桃さんじゃんっ」
そうだよよく思い返してみたらあたしに話しかけてたの胡桃さんだった。しかもだいぶ気を遣ってくれてたような気がする。なんだ、謝り損じゃん。
「それにしてもなんでお水なんて……」
スポドリだって売ってるし、そもそも粉のやつを持ってきてる。まだ一セット目だし飲み終わったはずないんだけど……。
「やさしさだな……」
あたしの様子が相当おかしかったのだろう。だから気分をリセットさせるために外に出させたんだ。現に今あたしの意識ははっきりしてるし、ちょっと前のことはぼんやりしている。
そんなにあたしやばかったのかな……やばかったんだろうな……昔のあたし、かなりあれだったし。
怒られないように、怒られないために、怒られないバレーをやってたから。
天音ちゃんたちや、まぁ飛龍とかとしゃべってる時は楽しかったけど、それ以外はあんまりよく覚えてない。ぼんやりとモヤがかかっていて、ただ辛かった記憶だけが脳にこびりついている。
それに髪とかも短くて全然おしゃれしてなかったからな……まぁそれは関係ないか。
とにかく楽しかった時間に突如苦しかった体験が流れ込んできて頭がおかしくなっていた。
でももう大丈夫。ちゃんとリセットできたし、今のあたしは梨々花先輩のためにバレーをやってるんだ。なにも怖いことなんてない。近田このやろー!
さて、そろそろ戻らなきゃ。確か飛龍が出てきた気がするし、あいつと蝶野が合わさったらとてもじゃないけど手をつけられない。少なくともインハイ予選の紗茎より数段強いことは火を見るより明らかだ。梨々花先輩は寝ちゃってるし、あたしがどうにかしないと。でもあたし一人で拾えるかな……。
あれ。なんか今すごい色んなことを考えられてる気がする。
これあれか? あたし、覚醒しちゃったかな。そういえば近田監督が来るまですごく調子よかった気がするし、たぶんそれがまだ続いてるんだ。
だとしたらなんとかなるかも。飛龍はまだ怪我してるはずだし、ブランクもある。ならむしろ今がチャンス! ていうか帰った時にはもう勝ってたりして。
さてさて、どうなってるか――、
「ぅぶっ」
体育館の入口に近づいて、監督の後ろ姿が見えた瞬間。
さっきまでの思考のキレはただの現実逃避だったことに気がついた。
「ぅ、ぶ、ぅぅ……」
吐き気がする。気持ちが悪い。転げるように体育館から離れ、近くの草むらの前でうずくまる。
だめ、これ、がまんできない……!
「ぅ、ぇ、ぇ……」
猛烈な吐き気に耐えられず、あたしの口から液体がこぼれ落ちる。もうごはんは消化されていて透明な胃液と唾液が自然に還っていく。
「ぅぁ……はぁ……あぁ……!」
糸を引いた唾液が地面と口内で繋がるのを不快に感じながらも動くことができない。もう何も出るものがないのにただその場で惨めったらしくうずくまることしかあたしにはできない。
あたしには梨々花先輩がいる。
でもそんな小さな希望は三年間の恐怖に押し潰され一瞬の内に消えていく。
ごめんなさい、梨々花先輩。
口ではあんなに梨々花先輩を想っていたのに。
あたしは、弱い。
「大丈夫?」
それは、あたしを救う声。
でも梨々花先輩のものではない。
ここで振り向くのは間違ったことだ。
梨々花先輩を求めるのが今のあたしの正しい行動。
でもあたしはそれを我慢できない。
誰でもいいから、助けてほしい。
「たすけて、ください……」
吐瀉物が混ざった汚い声であたしはそう求める。
「何ができるかわかんないけど、あーしにできることなら助けてあげる」
あたしの背後で笑顔を見せていたのは、この場にいる花美側の唯一の大人。
小内さんが、あたしを助けてくれた




