第92話 そんな彼女の親友の昔話。
「愛。無理なお願いなのに悪いな」
次の日、俺は愛にお礼を言うことにした。こんな面倒なことを引き受けてくれるのだ。筋は通さないと。
「別に。一歌の頼みだったし」
「それにしても、ありがと。うまくいったら、何か礼をさせてくれよ。なにか、俺にして欲しいことないの?」
愛は、いちど何かを言おうとして、言葉を飲み込んで。小さく息を吐いて、言った。
「……アタシの最初の男になって」
よく意味が分からない。
「それ、付き合いたいってこと?」
「ちげーよ。アタシの処女もらってって意味!!」
へ?
それはそれで意味不明すぎる。
「お前、俺のこと好きなの?」
「べ、別にそんなんじゃねーよ。恥ずかしいんだよ。いい歳して、まだ処女とか」
17の処女か。
10代の処女とか、むしろ男にとっては尊いだけかと思うが。
「愛なら、いくらでも相手いるだろ? 美人だし」
愛は何故か小声になった。
「そりゃあそうだけど。アタシにも選ぶ権利ってものが。初めてくらい…きな男と……、それにアンタみたいなモブ男が相手なら、きっと他のやつにバレないし」
「俺を選んだら、選ぶ権利を放棄してるようなもんだと思うけどな」
ま、後半のモブのくだりは、確かに納得だけどな。選ぶ権利を行使してモブ男を選ぶとは。マニアックな好みではあるが。
「わりぃかよ」
愛は不貞腐れた様子で言った。
「そういえば、お前、ベースなんて弾いてたの?」
「今は全然。中学の時は、少しだけやってた。それに、今は触ってもないし。上手くはないよ?」
「いや、それでも嬉しいよ。ありがとう」
「別に……」
俺は今、そんな愛と家に向かっている。
父さんが、愛を連れてこいとうるさいのだ。
家の前につくと、愛は肩からかけたベースを下ろして、カバンから何か出した。
制服のジャケットだ。愛がジャケットを着るのは珍しい。それに、なにやら小さな鏡で髪の毛やメイクを直している。
「よし、いいぞっ」
愛は、体の前で小さな両拳を握った。
「あぁ」
それにしても、この人、なに気合入れてるんだ? もしかして、オジ専で父さんに興味があるとか?
家に入ると、愛はリビングに通された。
「あの、これ……」
愛は、母さんにお土産を渡した。
ケーキだった。
愛と2人で並んで座る。
静かすぎて気まずい。
「愛、なんか緊張してる? ちょっとウケるんだけど」
「うるさい。ころすぞ」
顔を赤くしてそんなこと言われたって、迫力ないよ。
すると、愛が手を握ってきた。
「ちょっと……」
「ごめん、ちょっとテンパってて」
気の強そうな子のこういうのは、たまらなく可愛いんだけどね。うちには一歌ダイレクトなペットカメラ(愛紗)もあるし。
ごめんよ。
俺は、そっと自分の手を引いた。
(……愛の左手の爪、少し反ってる?)
すると、父さんがきた。
愛はいきなり立ち上がると、深々とお辞儀をした。
「え、えと。アタ……わたしは、蒼くんのクラスメイトの山西 愛といいます。以外、お見知りおきを……」
姉さん。
任侠感が半端ないっすね。
父さんは、座るように促すと自分も座った。
「そんな畏まらないでよ。俺は、こんなかんじでゆるーい父親だからさ。えと、愛ちゃんだっけ。蒼から聞いた通りのベッピンさんだ。カレシとかいるの?」
紅よ。いくらなんでも初対面でナンパは、チャラすぎるだろう。世の中は反ルッキズムなんだぞ?
すると、愛は首を横に振って、意外な質問をした。
「あ、あの。おとうさんはギター弾けるんですか? よければ、聞きたいです」
父さんは笑顔になった。
「じゃ、部屋をかえようか」
「すげぇ。防音室じゃん。うわ、機材もプロみたいだ」
愛は目をキラキラさせている。
部屋に入ると、父さんは言った。
「へぇ。あ、先にベースを見せてよ」
愛はケースからベースを出して、父さんに渡した。興味がなさそうだった割には、ブリッジも磨き上げられめていて、よく手入れされている。
「へぇ。使い込んでるけど、良いベースじゃん。これ、ビンテージだよね。ユーズド?」
「い、いや。これアノ人……おやじが使ってたやつです」
そういや、俺は愛のこと何も知らない。
一歌を大好きな友達で、バイトの先輩。それくらいの認識しかない。
でも、たしか。
一歌が、愛には父親しかいなくて、政治家って言ってた気がする。
「ふぅーん。少し弾いてみてよ」
愛は父さんからベースを受け取ると、ボーンと弦をはじいてペグを何回か回した。
(基準音なしでチューニングできるのか)
おもむろに、弾き始める愛。
粒の揃った綺麗な音だ。
父さんがヒューと口笛をふいた。
「ね、愛ちゃん。多少のブランクはあるみたいけど、本気でやってたでしょ?」
「ま、まぁ」
「理由は聞かないけど、蒼を手伝ってくれてありがとう。よかったら合わせない?」
それから十数分。
父さんと愛は、一緒に弾いた。
プロについていけるって、相当だ……。
適当にやってたんじゃないのは、素人の俺にも分かった。そんな本気だったのに、普段の愛に、音楽をやってたような素振りはない。
父さんはギターをスタンドに置くと言った。
「ね。君のベースの音、どこかで聞いたことあるんだけど、君のお父さんって、プロベーシストかなにか?」
「あ、いや、昔は本気で目指してたみたいだけど、アタシが生まれる前に、やめたんです。母の実家が厳しくて。んで、今はベース嫌いみたい。それなのにアタシは、ベース弾いてるという……」
「なるほどねぇ。まぁ、不安定な仕事だし、色々あるよな」
父さんはそう言うと、満足そうに笑った。
ようやく解放されて、駅までの道を、愛と並んで歩く。
「おれ、愛のこと何も知らないんだなぁ、って思った」
「アタシさ。前に好きな男いたんだよ。んで、ソイツに誘われてバンドはじめてさ。そこそこ人気出てきて、もう少しでプロってとこで、そいつ死んじゃってさ。そしたら、アタシ、ベース弾けなくなっちゃった。……ダサいだろ?」
「……んなことないでしょ」
そんな話、全然知らなかった。
愛は目を逸らした。
「もう一生、弾けないままだと思ったんだけど。蒼に会って、蒼が困ってると思ったら、弾けちゃった」
愛はこっちを向いて笑った。
綺麗な唇のかたち。隙間から真っ白な歯が見える。
……この子、こんな風に笑うんだ。




