5.主人公と泣いたライバル
おわかりいただけただろうか。
袋に入っていた粉末は、宿泊所の枕に使われていた蕎麦殻を砕いてすり潰して粉状にしたものだ。荒っぽい手作業だったので、若干固形物混じってるけど。
皇太子レシュは蕎麦アレルギー体質だった。
なんで西洋風世界観でいきなり蕎麦が出てくるのか、と訊かれても正直知らんがな。
多分、帝国はアジア圏っぽい東の国々も支配下に置いていたから、食文化が多様だったんだろう。或いは日本的なお蕎麦を指してはいないのかもしれない。前世でも蕎麦粉のクレープだかガレットだかを食べたことあったし。
この際それはどうでもいい。
着目すべきは彼の体質についての「設定」である。何しろおまけページとはいえ「公式」が言うからには間違いないと思ったんだよね。
蕎麦アレルギーは重篤だと聞くし、少し粉塵を吸ったら具合が悪くなって、普段の戦闘能力は発揮できないんじゃないかな……って。
しかしまさか、これほどとは。
あんなに偉そうだったラスボスの威厳は、最早どこにもなかった。呼吸困難と全身の蕁麻疹に苦しめられ、地を這いながら呻いている。
やっと到着した街の兵士たちが皇太子レシュを捕らえた。さすがに外交問題があるから、無闇に手を掛けるのはマズイか。
ただ、もしかしたらそのまま死んじゃう可能性もある。この世界にアレルギーの治療法が存在するのか、私は知らない。
後悔?
するもんか。
だって今世の私は奴を殺したかった。故郷を滅ぼした敵国が憎かった。
そしたら偶然、前世の私の胡乱な知識が役に立った。都合が良すぎるし、もしかしたら私はそのために転生したんだろうか。
あれ? でもコレ大丈夫かな?
私は何をした訳でもないけど、いや、ちょっとはしたような気もするけど、言うまでもなく漫画のストーリーを大幅に変えてしまった……よね?
まあ今更どうしようもないけどさ。
未来というのはそもそも白紙だ。悪いことも良いことも予測不可能で、どうなるかなんて知らない方が普通なんだよ。漫画のストーリーと違くなるなら、それはそれで構わないような気がする。
敢えて想像するなら、皇太子がいなければ、きっと帝国の侵略行為は方針変更を余儀なくされる。おそらくアウムラウト姫も連れ去られない。
そうなれば平和が戻るし、王家も安泰だし、エルも危険を冒さなくて済む。ある意味ハッピーエンドじゃん。
敵サイド以外は円満解決だよねー。
めでたしめでたし。
……………。
……もちろん、忘れてはいない。
今もなお――依然として、私とエルの間には未解決の問題が存在している。
一度はサシで話し合う必要があるんだろうな。ごめん、まだ覚悟はない。残念ながら。
街の兵士や上役に混じって事後処理を進めるエルが、淡々とした表情の裏でどんな心境でいるのか……全然わからなかった。私は再び声を掛けることすら躊躇する。
かつてのライバルだと互いに認識してしまえば、十年前の別れ際やこの十年間にあったあれやこれやを考えざるを得ない。おまけに街で出会ってからの空々しい他人演技を思い返すと、色々気まずくなってしまう。
本音を言うと、改めて向き合うのが怖かった。
だから……再会なんてしたくなかったんだ。
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ところがしかし。
あれから一ヶ月、私がエルと顔を合わせる機会はやってこなかった。
……ですよね。
何しろ街どころか国のトップ陣が出張ってくる大騒動だったから。エルはすでにそこそこの地位と責任のある立場なので、私ごときに構っている暇はない。
申し訳程度に箝口令が布かれたけど、あのとき街の人間の大多数が目撃している。エルはまたしても英雄伝説を増やした訳だ。
私は当事者であるにも拘わらず、ちらっと事情聴取された以外は何もなかった。
お偉いさん的にはただの巻き込まれた一般人という認識なんだろう。尋問されても困るしラッキーだったわ。皇太子のアレルギー自体、全然説明できる気がしない。私が知ってるのも不自然じゃん。
街のお祭りは中止にならず、英雄の活躍(口外法度の意味とは……)のおかげもあってにわかに盛り上がった後、無事閉幕した。ガイドのバイトは終了である。
纏まったバイト代に加え、見舞金か迷惑料か口止め料か判別のつかない手当が付いた。やったね。
次の仕事は何も決まっていない。当面は細々とやっていくつもりで、私は老夫婦の遺した家に戻った。
そうこうしているうちに、早一ヶ月が経ってしまった。前世と違って移動ひとつ取っても時間使うんだよ。ほんと電車や自動車の便利さが懐かしい。
街から遠く離れたところに帰ってきたのはいいものの、段々とこのままここに居ても駄目なんじゃないかと思うようになった。
以前の……ツェットの記憶がない私だったら、きっと適当に日銭を稼いで細々と暮らし続けただろう。
ういのはずっと前世の記憶しか頼りのない状態で生きていた。天涯孤独で寄る辺ない身の上なのは、今も同じだ。けれどツェットの胸中には、置き去ることしかできなかった思い出がある。
私は心の赴くまま、欲求を通すことに決めた。老夫婦の家を整理して、旅支度を整える。
向かう先は――もう誰もいない故郷の地だった。
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六年前、帝国の侵略を受けて焼き討ちにあった私とエルの故郷。敵軍はエルが後に追い払ったけれど、国境に近くて危険だし、曰くつきの土地になっちゃったから、今は旅人すら通らない。
無念のうちに死んだ住民のためにエルが墓を作るエピソードは、漫画で読んで知っている。確か私のもあるんだよね。笑える。いや笑えないか。
どういう感情でいればいいのか迷いながら、私は墓標以外に何もない土地に足を踏み入れた。
荒野が広がる。
障害物がないから風が強い。
無数の小さな墓石が見える。
本当は両親も親戚も友人も辺境軍の仲間も、皆この墓の中にはいない。遺体は衛生面の問題もあって帝国軍が燃やして埋めた。略奪され尽くして遺品もない。
何もない。
喪失感が一気に押し寄せてきて、胸が痛んだ。知らず涙が出る。嗚咽が止められない。
ああ、いいやもう。
ここにいるのは自分だけだ。
私は憚ることなくわんわんと泣いた。みっともないくらい、激しく泣いた。一生分泣いた。
あのとき記憶と共に失ったものが大き過ぎた。
前世の記憶と自我だけで生きてきた間も、私の手には何もなかった。もちろん周囲には優しいひともいて親身になってくれたけども、異世界にいきなり放り出されたういのは最初から空っぽだった。
ツェットは違う。たくさん持っていたのに、どうしようもない理不尽な暴力に晒されて奪われた。
どちらがより辛いとか悲しいとか、そんなんじゃない。言ったところで何になる? ういののままだったら、ツェットのままだったら。そんな仮定は無意味だ。無駄だ。
エルがこんなに何故たくさんの墓を作ったのか、その気持ちを理解した。
冷たい土の下に埋めたのは、哀悼の意だけじゃあない。後悔と苦痛をぐちゃぐちゃに混ぜて、置き去りにした。独り遺されても未来を生きていくために。心の整理のために。
『僕は行きます。ツェット』
かつてエルが旅立った日、ドア越しに聞いた別れの言葉をまた思い出す。
ううん、もともと一字一句憶えている。
あんなにも真摯で、私たちを大切にしてくれたエルは、故郷の惨状を目にしてどれほど傷ついただろう。
『きっと君はこの街を、みんなを守ってくれるひとになると思います。だから僕も心置きなく旅立てるんです。この国は常に危機に晒されている。僕は守るための力が、もっとほしい』
エルは守りたかったのに、離れていたからできなかった。私も守りたかったけど、力が足りなくてできなかった。
ごめん、エル。私は信頼を裏切った。会いたくないなんて嘘だ。合わせる顔がない、が正しい。今更どの面を下げて、主人公の初期のライバルなんて主張できる?
自分を責めても死者は甦らず、故郷は永遠に喪われたままだ。この虚しさは、いつかエルが通ってきた道に違いなかった。
無垢だった幼少時代。温かい家族。親しい友人。優しい隣人。木洩れ日が射す小道。花咲く丘の上。美しい水辺。楽しかった学舎。湯気の立つ食卓。何気ない日常会話。初恋。
ささやかな日々が幸せだった。
なのに、もう何もない。
自分自身と、エル以外、何も。
「でも……エルには二度と会えないよなあ」
涙まみれの汚い顔を手の甲で雑に擦りながら、私は泣き笑いした。
ここにいる資格すらない私には、今後の行き先も展望もない。老夫婦の家に再び戻るか、いっそ全然知らない土地を放浪するか。
許されるなら国境沿いの別の街で、辺境軍に入り直すのもいいかもしれない。ブランクを取り戻すには時間がかかるだろうけど、生き残ったからにはまだやれることがあるはず。
綺麗事かな。昔の自分たちみたいな人々の暮らしを守りたい。国の中枢で頑張るエルを、遠くから応援したい。些細でも、ちょっとだけでも手助けになればいい。
今生の別れでも、それで――……。
「……それは、困ります」
不意に、背後から声がかかった。




