「白光(はっこう)」 (犬井作 作)
なにもかもが、上手くいっている。
先日応募したコンクールで、自分の詩が最優秀賞に選ばれた。得た賞金で親を食事に連れていって、心落ち着く時間を過ごした。その間は満たされていたはずだった。
誰もいない家に戻った途端、虚しさが押し寄せてきた。おかしくなったのはそれからだ。
全身は重たく、頭はふわふわしていて、なにをするにしても、自分の体がひとりでに動いているように手応えがない。
なにもしないで過ごした土曜日は、その間はひどく長く感じたのに、翌日になってみるとあっという間だ。残ったのは倦怠感だけ。
降り注ぐ雨に耳を傾けながら、僕は、自室の壁に凭れかかって、窓の外を眺めている。明かりを消したままの部屋だと、三日ほど引きっぱなしの布団も散らかった本も見えなくなって、まるで窓枠が一枚のカンバスのようだ。
安アパートの二階に位置するこの部屋からはいつも自分が歩いている道路が見下される。視点が変わるだけで、見慣れた退屈な風景は新鮮さを取り戻し、時々、美しい貌を見せる。
ひときわ美しいのは、自分に内在する時間が、外部の時間に打ち破られた瞬間だ。そのとき、詩が浮かぶ。息をひそめ、死体のような目で、空間そのものを知覚したときに――
はらりと、カンバスの天井からイチョウの葉が落ちていく。僕は飛びついて、切り取られた眼下の風景を目に焼き付ける。
住宅と公園の間に挟まれた狭い一直線の車道に、黄色い雨が氾濫する。灰色の空が反射する水面の下、黒いアスファルトの川底が覗いている。
深淵。
ポケットから手帳を取り出す。いつも挟んでいたペンが見当たらない。見回すが、見えなかった。薄暗いままにしておいた過去の己が忌々しい。そうこうしているうちに、脳裏に瞬いた言葉は過ぎ去っていく。
苛立ち紛れに、思わず手帳を放り投げた。
ガラスに当たり、落下する。差し込む光が茶色の背表紙を照らして、病んだような白さを上書きした。
詩が浮かばない。
何もかもが上手くいっているはずなのに、何もかもが噛み合っていない不快感。
「どうしてこうなっているのだろう」
他人事めいた声がする。
どうしてもなにも、噛み合っていないからだろう。結論は出ている。
「じゃあ、なにが噛み合ってないんだ。しっかりやってるはずだよ、俺」
けれど詩は逃げてった。それも結果だ。それに、かつて僕だった誰かの成果だろう、君が言うのは。
――不安が全身を重くする。目を閉じる。瞼の裏で極彩色が明滅し、集合し、離散し、ある形を編み出していく。
さっきの風景。僕の瞼の裏には焼き付いている。それなのに、どうして書けない。
「知らないよ……聞かないでくれよ……」
こういうときは、ほら、甘いものでも食べて、ゆっくりすればいいんじゃないか。
「それが昨日やったことだよ。無駄だった。どれも美味しいはずなのに、なんだか味気ない。ただ食べているだけみたいな……」
ただ食べているだけだから、その通りの味がしたんだ。自分が噛みしめるものの味に、耳を傾けていたか、思い出せないじゃないか。。自分がなにをしているのか、――そうだ、自分の体の重さを、自分の体の輪郭を、僕は意識していない。
「お腹が空いた」
僕は今日は、朝からなにも食べてない。フローリングが冷たい。
左胸が疼く。炎が意識を醒ます。時間の密度が、同調していく。目が開いた。
――カンバスを赤い傘が通り過ぎていく。穏やかな歩調で、雨を楽しむように――
僕は窓を開いて、手を伸ばした。
サッシに手をついて体を支える。ピンと伸びた指先に、雨粒が落ちる。濡れる。透明な指先は、赤色をしっかり掴んだ。
誰とも知らぬ傘の主はそのまま通りすぎ、道の向こうへ消えていった。けれど手の中に、凄まじい熱を感じた。
この手に帰ってきてくれた。
目頭が熱くなった。
熱が僕を導く。どうすればいいか、明らかだった。キッチンに向かう。下準備はすぐに終わった。
弱火を着け、油を引いたフライパンを載せる。卵を割って中身を入れた。蓋をする。
夢中だった。
蓋を開く。黄身は薄く固まって、白身の縁はめくれ、黒焦げになっていた。
ためらわうことなくひっつかんで、さっと口に入れる。焼けるような熱さとともに口の中いっぱいに広がるぐちゃぐちゃした食感。かさかさして、舌にひっついた。伝わるのは炭そのもののまずさだ。それがひどく生々しい。
噛むと、口の中で音を立てる。世界が潤んだ。口を少し開けて、冷やして、呑み込む。
僕を導いてきたものが、還ってくる。
喉を、胃を、通っていく熱さ。色を塗り込めた味。色彩――白光に溶けた無限のスペクトルが、溶けていく。
瞬くと、涙がこぼれた。
「僕は、生きているぞ」
お腹の中で、黄金の詩が脈打った。
2017/11/27 改稿




