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【習作】描写力アップを目指そう企画  作者: 描写力アップ企画管理者
第三回 妄想お食事会企画(2017.11.25正午〆)
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舌上の再会 (さかな 作)

「普段食べられないもの」について、読者ではなく作中の人物が食べられない、という解釈で書いたお話です。

 この部屋に充満する清潔な空気が(じん)は苦手だった。「まっさら」という言葉を思い起こさせるからだろうか。

 ベッド脇の丸椅子に腰掛けながらパイプベッドの上に座る女性を見つめていると、その顔がふとこちらを向いた。


「この煮物、あなたが作ったの? 板前さん」

「あー、まあ……はい」


 板前じゃないですけど、とは言えず仁は口ごもる。

 立ちのぼる湯気をすんと吸い込んでから、女性は一口大に切った大根を口へ運んだ。ん、と漏らしたきり、熱さごと味わうように無言のまま何度も頷いている。


「とっても、おいしいわ、味が染みて……人参も、甘くて」

「ゆっくり食べてください」


 それでも女性はシミだらけの頬を緩ませ、次々と煮物を口に運んだ。仁はそっと視線を窓の外に向ける。黒枝に一枚だけ残った落ち葉が、木枯らしに吹かれて飛んでいった。


 こんな寒空の日には決まって、仁の母親は鍋いっぱいの煮物をこしらえた。握りこぶしほどの大きさの大根や人参、幹のように太い牛蒡、ごろっとした里芋に平べったい椎茸、大ぶりの鶏肉。

 仁はずっと煮物が嫌いだった。具が給食で出る煮物の数十倍もの大きさで煮てあるのだ。箸が進まないのも仕方ないと幼心に反抗心を抱いたことを覚えている。


『なんでもいいんだけど、一品、作ってもらえないかな』


 なのに、ここの職員にそう持ちかけられた時、なぜか一番はじめに思い浮かんだのが母親の煮物だった。


「お野菜がとっても甘いわねえ」

 しみじみと言う声に仁は意識を引き戻される。

「知り合いから採れたての野菜もらってきたんで、うまいと思います」

「それだけじゃないわ。下ごしらえもちゃんとしてるし、お出汁もちょうどよくて。お若いのに煮物が作れるなんて」


 女性はまた箸でざっくりと切った大根を口に運んだ。優しい出汁の香りが部屋中に染み渡っていく。こたつの中で暖まりながらさんざん嗅いだものと同じにおいだ。


「それ、母ちゃんの十八番だったんです」


 懐かしさに背を押され、気がつけば仁はそんなことを口にしていた。


「まあ、お母様の」

「俺、煮物嫌いだったんすけど、いつの間にか好きになってて。今はもう二度と母ちゃんの煮物は食えないんすけどね」


 口から言葉が溢れる度に舌の上に懐かしい味が蘇ってくる。

 父と母と姉。四人で囲んだ食卓。大皿に盛られたありふれた料理の数々。眼裏に蘇る母はいつだって台所に立っていた。その背中にどれだけ文句をぶつけたことか。残ったおかずを母は次の日も一人で黙々と食べていた。


 あの時否定の言葉を一度でも「ありがとう」に変えていたら、少しは違った未来になったのだろうか。

 人はなぜ失ってからその大切さに気付くのだろう。

 失ってからでは遅いのに。


「その煮物をどうしてもある人に食べてもらいたくて、自分なりに味思い出しながら何回も何回も試したんですけど。やっぱ難しいんすよね」

「その人にはもう食べてもらったの?」

「あ、はい」

「喜んだでしょう」


 頷くと、女性は微笑んでご馳走様と手を合わせた。


「きっとお母様も喜んでらっしゃるわ。自分の息子がこんなにも家の味を気にいってくれてるんだもの」

「……ですかね」


 空になった器を受け取って、仁は静かに席を立った。ちらりと見えた彼女の手にはまだ薄っすらと手荒れの跡が残っていた。それもきっと、いつかはスポンジみたいにスカスカになって綺麗さっぱり無くなってしまうのだろう。


「私が言うのもアレだけど、とっても懐かしい味がしたわ。心からほっとする味ってきっと、こういうものを言うのねえ」


 そう言われたのは部屋を出て行こうとした間際のことだった。思わず振り返った仁に、女性は「また食べさせてね」と昔から変わらぬ笑顔を見せたのだった。




「全部食べたって?」


 部屋から出たところで仁は顔馴染みの職員である望月(もちづき)に取っ捕まった。


「食欲不振が続いてたから心配だったんだけど、仁君に相談して正解だったわ。お椀がすっからかんだもん。おいしかったんだろうね」


 空っぽのお椀を見つめながら、仁は部屋を出る時に見た彼女の笑顔を頭の中で何度も思い出していた。


「懐かしい味って言ってました」


 望月は目を丸くしてこちらを見た。


「俺のことは覚えてないのに、味は分かるんすよね」


 本当はずっと限界だった。何度も孤独に負けそうになった。今日を最後に施設に顔を出すのはやめようとさえ思っていた。そんな仁の状態に、この人はとっくに気付いていたのだろう。

 望月の手のひらが背中を優しくさする。


「仁君、また来てね。私たちはケアはできるけど、その人の家族にはなれないんだから」


 思い出のない母親と、思い出しかない息子。

 触れ合うにはあらゆるものが足りなかった――そう思い込んでいただけで、向き合う方法はずっと己の中にあったのだ。それは何十年も前からその舌に培われていたのだから。


「また来ます。母ちゃんにごはん作って、持ってきます」


 よろしくねと笑う望月に、仁は一礼して背を向けた。

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