ハートブレイクホテルにて (雨宮吾子 作)
不意に問いかけられたので私は思わず身体を強張らせて、そうしながらも何とか頷くことができた。どこか壺の中にでも押し込められたかのような、ぼわんとした感覚がした。
それから、ふっと真空状態に陥ったかのように音が遠ざかり、その分だけ他の感覚が鋭敏になったようだった。
私は運ばれてきたカクテルに口を付けた。思わず頬が和らぐような、甘い口溶けのカクテルだ。
私の様子を見ていた彼は、自分も口元を綻ばせながらこう言った。
「食前酒でそんなに喜んでいてはだめだよ。もっと素敵な食事が僕らを待っているんだから」
「分かっています。でも……」
「あまりこうした場には慣れていないんだね」
間違ったことを言っているわけではないから私は幽かに俯いたのだけれど、彼のそうした言い方は嫌いだった。嫌味っぽい人。愛することは到底できない人。それでも、私はこの人を選んだのだ。
どこか遠くに人の面影や荒廃した風景が見えたかのように思えた。でもそれは、紛れもない幻想だった。
「少しずつ慣れていけば良いさ。どうだ、もう一杯いくかい」
「いえ、私は……」
拒もうとした私の仕草など見えていないような振りをして、彼は人を呼んで聞き慣れない名前のお酒を頼んだ。
程なくして運ばれてきたのは、不思議な色の液体だった。
「これは?」
「アトランティック・アンバー、変わり種のカクテルだ」
琥珀の中に海を閉じ込めたかのような色のカクテルに口を付ける。舐めるくらいのつもりでいたのだけれど、独特の感触がして思わず呷ってしまった。少しだけ粘り気があって、それはどこか海の中を想起させるものがあった。深海の底を歩いているようでもあり、樹海の中を泳いでいるようでもあり、そうして最後には星の海を胃袋に収めたような感覚がした。
ぱっと卓上の燭台に火が灯されて、今夜のメインディッシュが運ばれてきた。前菜を排したのはきっと私の無知を嘲っているためでもあり、彼の焦りのためであったのかもしれない。
メインディッシュは脈を打つ黒い楕円形の物体に真っ赤なソースをかけたもので、そこに長方形の樹脂のようなものが添えられている。私はその黒い物体の正体を知っているけれど、添え物が何なのかは分からなかった・
「何度も訊くのは気が引けますけど……、これは?」
「ベークライトだよ。変なものじゃないから、安心して食べると良い。しかしまずは、こちらからだね」
彼はソースのかかった黒い影にナイフを入れた。私も静かに頷いてから、それに倣った。どこかで悲鳴が上がったような気がしたけれど、それは間違いなく気の所為だった。小さく切り取ってから口に運ぶと、石や砂のジャリジャリとした食感と泥水の香りが口中に広がった。それらの要素を美味に変えているのは、この真っ赤なソースのおかげなのだろう。
「ハートブレイクソース……、皮肉な名前だな」
私は一度口を拭って、添え物のベークライトを切り取ってフォークに刺す。たしかに断面を見ればいくつかの層になっていて、口の中で様々な味を楽しむことができた。食感も程良く引き締まっている。彼に促されて赤いソースを絡めると、口の中で溶け出す面白さと後味が引き潮のように去っていくのが感じられた。
どちらかといえば添え物のベークライトの方が好みではあったけれど、あの人の影を食べたことがより重要だった。あの人の影を飲み下すことで、私の胸に詰まっていた想いも霧散していった。
そして次の瞬間には、あの人というのが、誰を指すのかを忘れてしまった。
「どうだい、今日の食事は」
「美味しかったです。不思議でいて、それでも嫌な感じではなくて」
「そう、良かった。じゃあ食後酒といこうか」
彼はまた人を呼んで、聞き覚えのないような単語のやりとりがあった。私は何気なく彼の横顔を見ていた。
「レテシロップはどうなさいますか?」
一瞬、彼の表情が強張ったけれど、すぐに笑顔に戻って頷いた。
そこに陰謀の影を見たような気がしたけれど、私はさっきのカクテルや食事がもたらした酩酊の中に引きずり込まれつつあった。走馬灯という時代錯誤な言葉は、このような景色のことを言うのだろう。自分の中へ、自分の中へと意識が潜っていく。さっきまでは気にもならなかったステージの演奏が、その低音の刻まれる毎に、私の意識に波紋を広げていく。
気分を変えようと周囲に目をやる。スプートニクと名付けられたこのラウンジバーは適度な薄暗さを保っている。太陽と月の光を一杯に浴びた窓ガラスには特別な技術が使われているようで、適切に虹彩を抑制している。日光と月光が手を取り合って舞い降りてくるこのバーで、私はあることを忘れてしまおうとしていた。
そうしていつかどこかで、私は肩を叩かれた。
「聞いていますか?」




