しあわせを食べる (zooey 作)
その人がくれたのは、ガラス玉みたいなものだった。そっとつまみ上げ、明かりに透かしてみる。まるく歪んだ向こう側が、光を集めるガラスの世界にすっぽりと収まっている。小さな小さなアトランティスだ。
そこへ、ぬっと男の人が現れて、私は視線をガラス玉から外した。
「これ、本当に食べていいの?」
その人は目を優しく細めてうなずいた。
口に入れてみる。
飴のようなものだと思っていた。けれど、それはちょっと歯が当たっただけで、砂みたいにほろほろほろと崩れてしまった。甘い味とさらさらした感触が舌の上に広がる。が、それらは二、三度瞬きする間に溶けてなくなってしまった。口の中は、夢のような味の余韻で不思議な熱を持っていた。
「これ、何てお菓子?」
気がついたらたずねていた。
――しあわせだよ。
「シアワセ?」
変わった名前のお菓子だなと思った。でもすぐに、からかわれているのかもしれないという考えがが追いついてきて、私は唇を尖らせてうつむいた。
「子どもだからって、バカにしてるでしょ?」
――してないよ。
そう言って、その人は私の頭をなでてくれた。顔を上げる。少し困ったような揺れる瞳と目が合って、胸がきゅっと縮んだ。その時、私ははっきりと感じた。本当に「しあわせ」だったのだと。
私の手には、まだもう一つの「しあわせ」があった。それを、その人に気づかれないよう、そっとポケットにしまう。いつか、悲しくてしかたがない時が来たら食べてみよう、と思って。
*****
「あんた、よく雨の音、平気だね」
「雨?」
彼ははっと視線を上げ、今気づいたと言わんばかりに目を見張った。
これから台風が来るらしく、朝から降っていた雨は徐々にひどくなり、今では氷を叩き割るような激しい音で窓を打っている。
「うわ、マジだ。気づかなかったわ」
「なんで気づかないのよ?」
あまりの雨の強さに、窓はガタガタと揺れ、破れてもおかしくないと思えるほどだ。これに気がつかないなんて、どういうことなんだ。
彼はとにかく神経が太い。お湯を張って三日目の湯船にも平気で入るし、バスタオルも乾かしさえすれば洗濯なしで何度使ってもいいと思っているらしい。台所の流しで歯磨きをして、私に注意されたって悪びれもしない。どちらかと言えば敏感な質の私は、彼のそういう図太さにはイライラさせられっぱなしだ。なんで私はこんな男と同棲なんて始めてしまったのだろう? それらは大したことではないようでいて、実は深刻な問題だ。私はこれからずっと、自分の培ってきた常識と相容れないものの隣にいなくてはいけないかもしれないのだから。小さな小さな絶望だ。
「集中できないから寝る」
読んでいた本を開いたまま伏せ、飽きもせず漫画を読み耽る彼の後ろを通って、私は寝室へ向かった。
ベッドへ横になる前に、小物入れの中からガラス玉のような「あれ」を取り出す。昔、近所のお兄さんがくれたそれは、今でも私の宝物だ。仰向けに寝転び、あの時のように電灯へかざしてみる。しかし、その内側は曇っていて、いくら透かそうと角度を変えても何も映らなかった。そら寒い気持ちに駆られ、息を落とす。すると――
急に、親指と人差し指の手応えが消えた。つまんでいたはずのガラス玉が、砂のようになり、はらはらはらと光を跳ね返しながら落ちていく。その一瞬の様がスローモーションになって目の中に焼きこまれた。
「どうした?」
上からの声に、体を起こして振り返る。きょとんとした彼がいた。
「崩れちゃった」
手に残るガラス玉の残骸を見せながら答えた時、目の縁に溜まっていたらしい涙がこぼれ、熱さが頬の上を伝っていった。彼は瞳の輪郭が分かるほど目を見開いて、それからすぐに、
「待ってろ」
そう言って出ていってしまった。
三十分程で、彼は戻ってきた。
「ほら」
差し出された手のひらには、透明のガラス玉がちょこんと座っていた。とたんに私はそれを食べたくなり、つまんで口へ放り込む。
ガリッ。
嫌な音とともに、ガラス玉は砕け、ザラザラした鋭い破片になった。そのすぐ後に、生ぬるい鉄の味が口へ広がり、新鮮な血の匂いとなって鼻へ抜ける。
「バカ! 何やってんだよ!」
慌てた様子の声に顔を上げると、彼の瞳は困惑に揺れていた。迷子のように不安げな視線が眩しい。それを見ると、私は、はたと気がついた。
これも「しあわせ」の味なんだ。
私はそっと首を振ると、彼の手を取って洗面台へ向かった。ガラス片を吐き出し、口をゆすぐ。それから「しあわせ」のおすそ分けをしようと思いついて、彼の口元へ顔を寄せ、ちょっと出した血濡れの舌でその唇を押しあけた。
ムカつくことは多いけれど、彼がたまにくれる「しあわせ」を食べて、私は生きていける。たぶん、おそらく、きっと。




