さよなら姫将軍 (三茶 久 作)
ぶん、と。
空気を斬り割く音が、虚しく響く。
目が霞みはじめている。無造作に刀を振り回すことしか出来なくなっていることを自覚しながらも、アラタは立ち向かうことをやめなかった。
長い紫紺の髪が流れる。姫将軍と呼ばれていた頃は女性らしく結い上げていたものだった。しかし、いまはもう汗と泥で艶を失い、無造作に乱れるばかり。
ああ、とアラタは笑った。
もう姫将軍なんて肩書きに縛られる必要もない。余分なものはすべて置いてきた。いま彼と向き合っているのは、姫でもなければ将軍でもない。ただひとりの娘なのだから。
吐き出す息は荒い。人の身でしかない自分には、もはや限界なのだろう。腕を振り上げるだけで躯が軋む。それでも、歯を食いしばり、顔を上げた。
神刀に捧げる魂は削られ、己が身が先に消えるか、それとも――と考えたところで、空気が振動する。
《アラタ》
耳に届いたのは、声ならざる呻き。それと同時に、脳に直接意思が届く。
《君には、そんな顔をしないで欲しいのに》
荒立つ気配を感じながら、それでもアラタが怯むことはない。
アラタの望みはひとつ。姫という地位も、将軍という責務もすべて投げ捨て、ただのアラタとして向き合いたかっただけだ。かつて彼だったもの――彼の残滓と。
「いま、楽にしてあげるから」
アラタはもう一度刀を構える。闇を断ち切る彼女の神刀は、淡い光を灯している。そしてその白き刃に映りこむのは、黒き闇。
魂が揺れるがごとく、ほの暗く輝く瞳。黒き色彩にのみ込まれた彼の四肢は、もはや実態を伴わず、闇そのものが人型をとっているにすぎない。それでも意識だけは残っているらしい。
彼の姿を見据えたまま、アラタは唇を噛んだ。
悔いても仕方ないと分かっている。それでも、かつて刃を交えたとき、闇の芽を摘み取ることが出来なかった。あの一瞬の躊躇が、彼の闇をここまで膨らませてしまった。
「大人しくわたしに斬られて」
《アラタ。君には刀なんて似合わないのに》
慈しむようでもあり、もはや空虚でもある彼の響きに、アラタは首を横に振る。よろめきながらも、アラタは真っ直ぐに、彼に向かって刀を突き刺した。
——あああああ!
腕から伝わる振動に、嘆きと呻きが混じる。
彼はあえて避けなかったのだと気付いた時にはもう遅い。刀を突き立てた彼の中心。瞬間、そこから闇が噴き出した。
「っ……!」
漆黒はたちまちアラタを飲み込んだ。
地上にいるはずなのに、波にさらわれ、溺れてしまったかのような感覚に襲われる。
黒き血の奔流。深い海の底に沈み込み、抗う事なんてできない。こぽこぽと、喉の奥、耳の奥まで、彼の闇で満たされて、それでもなお目を開いた。
(なんだろう。温かい)
いつの間にか、刀を握る感覚が消え去っている。しかし、神刀と同じやわらかな光が、アラタの躯を包み込んでいた。
(――ああ)
そしてはじめて、アラタは触れることができた。
暗くて深い、闇の水底。
自分と同じ紫紺の髪。ゆっくりとこちらを振り返る、彼の心に。
(ようやく、あなたを見つけた)
魂の在りか。隠すことのない、剥き出しの心。
彼の手が伸び、アラタの頬を包み込む。アラタが纏う神気を破るわけでもなく、軽く頬を撫でるように、その手はアラタの表情を溶かした。
アラタは知っている。彼はずっと、そうしたかったのだ。
(修羅の顔をしないで欲しいと。あなたは何度もそう言った)
しかしアラタは聞き入れなかった。
姫将軍という地位が、身分が、責任が――のうのうと暮らしていくことなど許しはしなかった。
だからアラタの生き方では、彼の望みが満たされる未来なんて、存在し得なかったのだ。
それでも彼は純粋に願い続けた。
アラタを修羅にはさせまいと。
アラタが護るために戦うならば、護るべきものをすべて壊してしまえばいい。そんな途方もない願いに行き着いたときにはもう、引き返せなくなっていたのだろう。
アラタは、彼のただひとつの寄辺だったのだ。
ならば。
そこまで純粋な願望であるならば。
「ともに逝きましょう。わたしはもう、姫将軍の名を捨てたもの」
だからもう、戻らなくていい。
神刀とひとつになった躯で、彼に触れた。
こぽこぽと。暗がりの中でふたり。波に揺蕩いながら溶け合ってゆく。とろとろと意識がのみ込まれてそして——。
——ヨスガ、と彼の名を呼んだ。
声にはならなかったかもしれない。それでもアラタは力なく微笑む。
流れ着く先はいずれの岸辺か。
いつだったか。
幼いころ。彼が手を繋いでくれた陽だまりのなか。
たったひとときの、安らぎの続きに出会えるなら、それでいい。




