(雨読 作)
右の耳が吹き飛んだ。
桃太郎は咄嗟に距離を置く。とめどなく後退りをする。太刀を向け牽制するも刃先は小刻みに震えている。
心が揺らいでいる。肉体の損壊からくる精神の乱れではない。今の一撃で力量差を察し、臆したのだ。
人間では強力無比と評され、これまで鬼相手にも圧倒してきた。しかし首魁温羅だけは違った。
ここにきて人と鬼との絶対的な差を思い知る。体格と膂力の差である。
人と鬼では上背が親子ほど違う。なれば当然手腕の長さもそれに比する。更に温羅は四尺(約120cm)はあろうかという金棒を得物としている。これらによって生じる丈の差は拳闘で槍に挑むがごとく絶望的なものとなる。
それでも無用の長物であれば他愛なく隙を見出すことが出来たであろう。温羅は手足のように自在に、小枝のように軽く振るうのである。並の鬼、況や人では扱うことすら叶わぬであろう金剛の棒をだ。
先刻、鋭敏な一撃が未知の間合いで襲ってきた。耳一つで済んだことは僥倖であった。急所を間一髪逃れただけのことである。もし温羅が僅かにでも深く踏み込んでいたのなら確実に首が飛んでいた。
桃太郎は起こり得た死に怯えた。想像に容易い死。今まで感じたことのない切迫した恐怖であった。五体が震える。少しでも離れようと必死で後に退く。相対する温羅はじりじりと距離を詰めた。
桃太郎には老獪な神経戦に思えた。だがその慎重さにふと疑問を抱く。
(何故あれだけの実力差を見ておいて、速攻で蹂躙しないのか)
そこで推察する。
(これまでの鬼への武勇伝が、眼識を惑わせているのではないか。
ならば先の踏み込みの甘さや追撃を急かさなかったことも合点が行く)
この推測は外れていた。温羅も力量差は十全に把握していた。だからこそ攻撃を焦らなかった。正攻法に着実に攻めれば良いのである。拙攻からの不意の反撃の方をよほど恐れたのである。
だがこの余裕は桃太郎に有益に働いた。心を鎮める時を作ったのだ。呼吸を整え構え直す。刃先は微塵も動かない。
ただし状況が好転した訳ではない。むしろ冷静に思案するほど温羅との力の差を痛感せざるを得なかった。
桃太郎には秘術があった。
「縮地術」といい、相手との間合いを瞬時に詰める踏み込み術である。だが金棒の外から術を用いようと、太刀はまだ届かないことが予見できた。
絶望的な得物の丈の差。
この不利を覆すには賭けに出るしかなかった。
一転桃太郎は敵めがけ駆ける。それに呼応するかのように温羅は迎え撃つ。
遠く離れていた間合いが一気に縮まる。それは金棒の及ぶ距離まであと数歩のところに迫る。突如桃太郎は刀を投げつける。
温羅は怯むも即座に金棒で払い落とす。人外の反応が為せる技。温羅は得意気に笑う。だがすぐに色を失う。
投刃は陽動。払う隙を掻い潜り桃太郎が肉薄したのだ。
桃太郎はすかさず右腕を振り上げる。逆手の小太刀の刃が光る。
(狙うは必殺。側頚の大血管)
この間合いは桃太郎の独擅場である。神速といえど金棒の振りでは防御が間に合わず、なにより金棒の内であり巨躯がむしろ不利に働く。
桃太郎は思うままに振り下ろした。
次の瞬間、落ちた物体のあまりの重みに、僅かであるものの地表が揺れた。
崩れ落ちたのは温羅
ではない。
首に届かず。刃は温羅の右手に掴まれていた。金棒を捨てその手で攻撃を防いだのだ。血が滴る。桃太郎は目を見開く。温羅は笑う。そして左の剛腕が桃太郎の頬を捉え、殴り抜ける。桃太郎は宙を舞い、為す術なく地面に叩きつけられた。
*
砂埃が巻き上がり、そして落ちる。
静寂の中で野太い荒い息だけが響く。温羅は両の手を握りしめ、右の拳からは血が零れ落ちる。おもむろに桃太郎の様子を窺う。
倒れて動かない。
口元が緩む。肩を撫で下ろそうとした。だが念押しにつぶさに観ると顔は強ばる。
微かに胸が上下していた。
(息の根を止めねば)
焦燥に駆られた。金棒は足元にあった。右手は刃に傷つき使い物にならない。慌てて左手を伸ばす。膝を折り下を向いた。
その瞬間であった。桃太郎が飛び掛かった。
温羅は刮目した。瀕死と軽んじ不意をつかれた。なにより安全な間合いと思い込んでしまった。またも存外の縮地術にしてやられたのだ。
更にその勢いで押し倒され、揉み合いとなる。馬乗りに対し温羅は仰向け。不利であるもその膂力で桃太郎を殴り飛ばす。桃太郎はがらんどうな玩具のように何度も地を転げ回った。
温羅はこの取っ組みの最中首に刺傷を負う。溢れ出る血を必死で押さえつける。臥位のまま止血に傾注しようとした。
だが突として立ち上がる。異様な気を感じたのだ。心中は乱れた。(在り得ない)血は垂れ流れ、酷い目眩も襲う。されど不遜にその主を睨む。
桃太郎が立ちはだかる。満身創痍、息も絶え絶え、だが鋭い眼光が温羅を見据える。血に塗れた小太刀は右手に強く握られ、その尖をおもむろに向ける。そして小さくも確かに呟く。
「いざ」




