表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【習作】描写力アップを目指そう企画  作者: 描写力アップ企画管理者
第二回 因縁のラストバトル企画(2017.7.22正午〆)
51/268

手のひらの温度 (狼子 由 作)

病に関する描写がありますが、現在の医学を前提にしておりません。

 おれの敵は、おれの中にいる。

 2年前から、ずっと戦い続けてきた強敵だ。


 げほ、と咳き込んだ途端、胸にヒドい痛みが走る。

 肋骨の軋むような激痛に、身を捩る。

 生理的な反射で涙を流しながら、それでも止まらぬ咳の音を聞いて、慌てて優希ゆきが駆け寄ってきた。優しい手つきでおれの背を撫でている。

 見上げれば、おれよりよっぽど苦しそうな顔をして、でも唇は微笑もうとしているから、どうも申し訳ない。


 確かにおれは苦しいけど……ある意味、らくっちゃらくだもの。

 もう間もなく、この時間は終わるって分かってるから。


 ふと、頬に柔らかい湿ったものが当たって、その感触に思い当たって無理に目を開いた。

 美優みゆが――来年小学校に上がる、おれの娘がその小さな手を伸ばしてくれている。

 おれは眉だけで微笑んで、止まらない咳を枕の中に押し付けた。




 そりゃ最初は、荒れたよ。

 何でおれが、って思ったさ。

 よりによって何で今、って。


 ちょうど係長に昇進したばっかりだった。

 課長は、人は良いけど営業部から色々押し付けられては謝りながらおれらに仕事回すような頼りない人で、部下はと言えば去年入ったばっかりの若いのが1人しかいなくて。おれがいなかったら仕事にならないし、なんて思ってた。

 優希ゆきとは結婚5年目で、美優みゆはようやく幼稚園に通い始めて、可愛いんだけど時々憎たらしい口もきくようになって、少し落ち着いたし今後のことも考えてバイトにでも出ようかなって優希ゆきが言い出したところだった。


 こういうのは、50歳とか60歳とか、そういう年齢になってから、ちょっとずつ気を付けたりして、でも寄る年波には勝てなくて、それで……70歳とか80歳になって、段々身体が自由に動きづらくなって、自然に……そういうもんだと思ってたんだ。


 敵って、こんなに突然生まれるものなんだな。

 最近、咳が止まらないなって、なかなか風邪が治らないや疲れてるのかなって、休日も1日寝てることが増えてきて……その年の健康診断で肺に小さな影が見付かった。


 そこからは早かったよな。

 入院して手術して、若い分すぐに進行するから一刻でも早くって言われて、あれもこれも急いで――あっという間だった。

 仕事のことなんて、正直、まともに考える間もなかったよ。

 だのに、あれだけ頼りないと思ってた課長は、総務と丁々発止で渡り合っておれの長期休職を勝ち取ってくれたらしい。まだ若いって甘く見てた新人くんは、おれがやってた仕事の半分以上を受け持って、何とか先輩が戻ってくるまで頑張りますからって言ってくれてた。


 おれには、選択肢なんて1つしかなかった。

 そんな良い人達に囲まれて、泣き言なんて言えない。とにかく戦おうって。

 同じ症状の人たちの内、4分の1は5年ももたないって知ったけど。これからどうなるか考えると、怖くて仕方なかったけど。

 薬、放射線治療、そして転移が見付かってまた手術――吐き気も怠さも傷跡の痛みも、何もかも飲み込んで。


 でも、ごめんな。優希。

 おれ、1回だけ負けちまった。

 2度目の転移が見付かった時。

 骨にまで転移してるって分かった時に。


 綺麗に終わらせようと思ったんだ。

 もう希望なんてないのに、絶望だけが重なって増えていく毎日に、愛する人を巻き込むなんて耐えれなかった。


 あの日――胃洗浄が終わって目が覚めたら、泣き腫らしたお前が横にいた。

 おれはまだぼんやりした頭で、くだらないこと言っちまった。

 痛む夜に貰ってた睡眠薬、もう医者は出してくれないかもな、なんて。


 お前は、おれの頬をぶん殴った。

 美優とおれと、どっちと行くかを自分に選ばせるつもりなのかって、本気で怒った。

 名前の通りいつだって優しいお前が、あんな顔してるの見たの、あれが最初で――最後だ。


 なあ、優希。

 おれが負けるのも、あれを最初で最後にするんだ。

 泣きながらお前が、最後のお願いだって言ったこと、せめて叶えてやりたいから。

 最後まで自分と、美優と一緒にいてくれって、頼んだこと。

 出来るだけ長く、傍にいてくれって。


 ただでさえ呼吸は浅いから、酸素が全然入ってこない。

 どんなに寝ても頭は重いし、少し動くだけで背中が痛む。

 夜は痛みと孤独で冷えた空気に晒されて、昼間は折角の残された時間をただ横たわって指折り数えるしかない。

 でも。




 美優のちっちゃい手が、伸び放題のおれのアゴヒゲを撫でた。

 優希の指先がおれの目尻をなぞって、涙を拭ってくれる。


 分かってる。

 多分、これが最後の戦いだ。

 何度も繰り返せるもんじゃないから。

 多分、今度はおれ、乗り越えられない。


 だけど――おれ、もう絶対負けないから。

 最後まで、出来るだけ長くここにいるから。


 何にも出来なくったって、何が変わるワケじゃなくたって。

 ただそこに1秒でもいてくれるだけで幸せだって、お前達の手の感触で、誰よりも良く分かったから。

2017/08/20 前書きを修正

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ