一迅の風になれ! (さかな 作)
青い空に出馬のファンファーレが鳴り響く。
背番号の順番通りゲートに収まると、僕は自身の胸の高鳴りを押さえつけるように、相棒であるゲイルのたてがみを二、三度さすった。
〈緊張してんのか、風馬〉
「だって最初で最後のレースだし」
ゲイルは、僕の頭の中にだけ響く声で〈弱音はヤメロ〉と憤慨した。
〈最初だろうが最後だろうが、このレースで優勝するのはオレ様たちだ。そうだろ?〉
「……うん」
たとえば優良な血統とか、ジョッキーに対する期待値とか。或いはトップを牛耳るS厩舎の協会との癒着とか。パドックを周回している間頭の中をぐるぐると渦巻いていたコンプレックスや腫れ物同然の現状に関して思い悩むのはもうやめた。
今は目の前のレースに全身全霊をかける時だ。
最底辺だった僕らがこの青い芝の上に立っている奇跡。その先にあるものを、今なら信じることができる気がする。
「いこう、ゲイル」
〈やってやろうぜ〉
場内に溢れる歓声を遮断する。
意識が針のように研ぎ澄まされる。
空は快晴、馬場は良好。
風が凪ぎ――バン、とゲートが開いた。
『さぁ始まりました早春ステークス。先陣を切るのは、おっ、まさかのカイザーです!』
場内のどよめきがコースにまで届く。最後方を走る僕らの位置からは、馬群を頭三つ以上離して爆走する馬の姿がよく見える。第一コーナーを独走する灰銀の馬体。S厩舎の看板馬、名実ともにナンバーワンのサラブレッド・カイザーである。
〈なんであいつが先行してんだ〉
本来彼はゲイルと同じ、最後の一直線で馬群を後方からゴボウ抜きにするスタイルだ。それがいきなり先頭を走るなんて、確かにおかしい。
〈しかもペース配分が異様に速いな。あれじゃゴール前にバテちまうだろ。体内時計でもイカれたか?〉
「いや……」
おそらく違う。脳裏を掠めるのは専属ジョッキーとあの馬の鼻持ちならない態度。泥で薄めた血統だとゲイルを罵り、調教師あがりの半端者と僕を非難した。こんなのをもてはやすメディアはどうかしている、とも。
「馬鹿にしてるんだ。本来のスタイルじゃなくても楽勝で勝てるって。大差つけられるって」
馬群は第二コーナーに突入する。僕の考えを裏付けるように、カイザーがちらりとこちらを見た。その目には確かな貶みの色が浮かんでいる。
〈ふざけんな! おい風馬、オレ様たちもペースあげるぞ。一気に追い抜いてやる〉
「まってゲイル、だめだって」
思いきり手綱を引き、姿勢を立てて、加速を図るゲイルを力一杯押さえつける。前方には幅広な馬群。今のゲイルじゃ仕掛けても切り抜けられそうな道がない。
「今じゃない。もう少し待つんだ」
〈レースが終わっちまうぜ!〉
「ゲイル、僕を信じて!」
ぐ、と不満を呑み込んだのか、それ以上ゲイルは文句を言わなかった。
不思議なことに、その言葉の直後から明らかに乗り心地が変わった。揺れの衝撃に誤差をまったく感じないのだ。鞍の感触も、手綱の感覚も、今までで一番自然だった。
まるで人と馬が一体化しているような気分だ。ゲイルに、信じるぞ、と言われているみたいだった。
いけるような気がする。
いや、いける。
漠然とした思いがぐんぐんとうねり、鋭利な弓矢となり、僕らをますます一体化させる。
第三コーナーを越える。馬群がばらけだす。
カイザーは相変わらず一頭だけ抜きん出ている。
第四コーナーを曲がる。
僕らは最後方のまま。まだだ。
前方、馬群がばらける。まだだ。
隙間の切れ目から輝く灰銀の馬体が見えた。あと少し――。
その時、遥か前方で風が起こった。
春一番。
いや、神風だ。
『あーっと、カイザー、失速か!』
疾風がサイドトラックから砂塵を引き連れ、最後の直線を襲った。突然の砂嵐に乱れる馬群。その中にはカイザーの姿もある。
そしてその瞬間を、僕は確かに捉えた。
道が見えたのだ。
砂塵の中の、青い道が。
「ここだ!」
〈待ってたぜ!〉
栄光へと続くただ一本の道へ飛び込む。
『一頭、抜けた! なんと12番です!』
驚愕に目を見開くカイザーの横顔を、驚いて振り向くジョッキーを、一気に追い抜ていく。ぐんぐんスピードがあがる。後方に差をつける。疾風はとまらない。まだ見ぬ景色のその先へ。
「行けッ、ゲイル――風になれ!」
渾身の力を込めて鞭を打つ。
一馬身、二馬身、三馬身……。
青芝が舞う。
『黒き疾風を伴って、レイヴン・ゲイル、有終の美……!』
ワァッと沸き起こる大歓声。
届くはずもない、馬鹿げた夢だと思っていた。
それでも諦めずに歩いてこれたのは、いつも隣に相棒がいたからだ。
やったよと、声にならない声で相棒に語りかけた。だがゲイルは「ヒヒン」と鳴くだけだった。
「ゲイル、言葉が……!」
「ヒヒィン」
「ゲイル……僕ら、僕ら、やったよ。優勝だ……」
どうにかそれだけを絞り出すと、僕は静かに喉を震わせ、空を仰いだ。
確かに今、僕らは一迅の風となった。
そしてあの日思い描いた夢の中を、共に駆け抜けたのだ。




