『刹那の花』 (八雲 辰毘古 作)
「ようやく来たようですね、兄上」
ひと気の絶えた、深更の闇の中──
篝火に照らされた庭園の、その只中にぽつんとひとりたたずむ影がある。その面持ちは火明かりを以てしても哀愁の陰翳を刻み、皮肉なことに、美しさをも添えていた。
空き家、それも廃墟である。
かつては栄華を極めた武家屋敷であったであろうこの邸宅は、いつしか立ち入るものも無くなり、荒れ放題となっていた。
その敷地を隠れ処として、はや十余年。ついにこの時が来たか、と男は身慄いせずにはいられない。この時が来るのを、ずっとずっと待っていたのだから──
「小太郎……」
やって来た男の声は、荒い。
その着装は乱れており、素早く走って来たことがうかがえた。
「その様子を見ると、すべてお分かりのようで……」
「当たり前だッ! 貴様は、人の心をなんだと思っておるのだ!」
これには思わず、小太郎の眉もぴくりと動いた。だが、かろうじて引きつりかけた右の頰をさすって、この感情を隠しおおせた。
「聡明なる兄上、あなたは事の真相を察知したようだが、まだ肝心なものをお分かりになっていないようだ」
「戯け! 分かっていないのは貴様の方だぞ小太郎。志津はまだ、お前のことを忘れてはおらぬのだからな」
限界だった。小太郎は抑えたはずの感情が沸騰するのを感じた。理性がこれを止めようとしたが、図らずも、声が震えていた。
「ならば……なぜ、あなたは彼女を娶ったのだ、兄上──いや大二郎よ。あなたは俺と彼女の事を知っていただろう!」
「それも家のためだ」
「嘘を吐くな。あなたは……彼女を密かに愛していた……愛していたからこそ縁談に乗り、私の心を踏みにじったのではないのか!」
その昔の話である。
或る、家格は高くとも金回りが悪くて傾きかけた武家の一家があった。その一家にはふたりの子があり、父は子供を羽振りの良い家の婿養子に出すことで、せめて食うに困らない暮らしを送らせようと望んでいた。
しかし、兄・大二郎を嫁がせた先の娘・志津に、弟であった小太郎が惚れてしまった。おまけに娘の方も小太郎に見初められ、相思相愛の身の上となってしまう。
事の次第が暴露たとき、大二郎は眉をぴくとも動かさず、しかしただ何事もなかったかのように婿入りしたのだった。
この出来事を忘れて、なにもなかったように振る舞えるほど、小太郎は強くなかった。彼は別の縁談を当てられたが、それを不意にして親の怒りを買い、勘当の身となったのだ。
その後のことは、ここには記すまい。しかし身を持ち崩し、牢人や無宿人たちと肩を並べて党をなしていたことだけは明かしておこう。そして、事あるごとに兄・大二郎の周りにちょっかいをかけてゆくことになる。
この一連の結果に、今宵の事件があったのだった。
「そうか……」
弟の言葉を聞いて、大二郎はむしろ微笑んだ。その笑顔が火明かりのもとであまりにも清々しく映ったので、小太郎はたじろいだ。
「小太郎、お前の考えは正しい。確かに私は志津を愛しておる。だからここに来た。あるいはお前の志が立派ならば、諦めても良かったやもしれぬ」
と、ここで大二郎は初めて怒りを露わにした。かっと見開いたまなこが、熾烈な気を発している。
「しかし、身を持ち崩した挙げ句にこのような卑劣な手に及んだお前のような男に、志津を渡すわけにはいかぬ。
だからいまこそ言おう。抜け。かつて目を瞑った事に決着をつけてやろうではないか」
応ッ、と返す小太郎。
互いに腰の物に手を当てる。
それはほんの刹那だった。
しかし永劫でもあった。
つ、と汗がしたたったその瞬間に、勝負がついた。白刃がふたりのあいだを過ぎる。交差した身体は、しかし最終的にはひとつだけが立っている。
倒れたのは、大二郎だった。
振り向き、驚愕にまなこを開く小太郎。
「なぜ……」
思いも寄らず、斬った刀の重みに慄える小太郎だったが、素早く兄の身体に寄ると、その唇から漏れ出る言葉を聞き取った。
そして立ち上がると、もうなにも言わなくなった骸に対して、彼は言う。
「あなたはどこまでも聡明だ。そのくせ人一倍不器用で……あなたこそ卑怯ではないですか。だから逝ってしまったのでしょうが、これから俺はあなたの分まで背負わねばならなくなる。それがどんな道か、分かっていて手渡すのだから卑怯としか言いようがない」
しかし、小太郎はなぜか笑っていた。
いまなら笑って許せるような気がした。
「有難う、また会いましょうぞ、兄上」
こうしてふたりの男女が、姿を消した。
のちになって人殺しとして草の根を分けて捜されたこのふたりは、心中事件として落着を迎えることになる。彼らの亡き骸から溢れた血潮は、それはそれは美しい、刹那の愛に輝いた花のようであったという。




