光る風のように (キュノスーラ 作)
「なあ、モンゲ」
となりのゴッチが、うなるように言ってきた。
体操服の胸元をつかんで、赤帽の下のすもうとりみたいな顔をこわばらせている。
「緊張がやばいねんけど。もう、ゲロはきそう」
「やめろや」
白帽をかぶったモンゲ――加門孝之は、ゴッチと同じくらい細い目をもっと細くして言った。
「福田にしばかれるぞ。本番や。本気でいこう」
二人は同時に、ちらっと後ろを向いた。
一番後ろの列に並んだ福田沙紀も、ちょうどこっちを見ていた。
赤帽の下で、彼女はにっと笑って、親指をあげるサインを出してきた。
ピストルの音が響いて、声援があがる。
待機の列全体が、また一つぶん、前に動く。
いっせいにスタートしたクラスの仲間たちが、あっという間にコーナーを回って反対側を走り抜け、ゴールラインに駆けこんでいった。
運動会。
モンゲとゴッチにとって、小学6年生になるまで、それは屈辱の代名詞でしかなかった。
足が激烈に遅い。
「本気でやれや!」
「もっとスピード出るやろ!」
出ない。
他の選手がゴールするころ、まだコーナーを回っている。
「こいつら嫌や、ふざけてるもん!」
「先生、モンゲとゴッチって、赤白分けるやんな? 同じチームはあかんで」
完全に邪魔者あつかいである。
ただひとつの救いは、一人ではなかったということだ。
「なあ、モンゲ」
5年生の運動会の直前、ゴッチは泣きそうな顔で言った。
「二人で、運動会休もうや。俺、もう嫌やで、運動会」
結局、二人とも運動会には出た。
これまでと同じように、結果は最悪だった。
だが、6年生になって、福田沙紀が来た。
(宇宙人ちゃうか)
と思うくらい、足が長かった。
「私が一番好きなことは、陸上です。鷹島の陸上クラブにも入っています。将来はオリンピックに出て、金メダルを取りたいです」
と、自己紹介のスピーチで話した。
(とんでもないやつが来た)
と、モンゲとゴッチは震えあがった。
走りのことを喋るとき、目が光っている。
それだけではない。
「なんで、そんな男みたいな髪型なんですか」
と、クラスの「調子のり代表」シンタが発言したとき、
「このほうが走りやすいからです」
と、頭にはりついたみたいに短い髪をさわって、笑った。
本気のやつだ。
今度の体育では、50m走のタイムをはかる。
こっちの走りを見られたら、「おまえらなめとんのか」と、あの長い足で回し蹴りされるかもしれない。
「あかんな」
7秒76、女神レベルの走りを見せつけて全員の度肝を抜いた福田沙紀が授業の後で近づいてきたとき、必死で12秒台を叩き出した二人は、間違いなく殺されると思った。
「あんたら、手の振りと足が合ってへんで。まず姿勢がおかしい。もっと前に出な。走り方、教えたろか?」
「えームリムリ」
ゴッチが引きつり笑いで手を振った。
「俺ら『足遅いコンビ』やねん。太ってるし。ムリムリ」
「もっと速くなりたいと思わんの?」
不思議なものを見るように、福田沙紀は言った。
「多分あんたら、ちょっと練習したら、1秒は記録縮むで」
「1秒て」
モンゲは思わず、こける真似をしながら言った。
「1秒なんか意味ないやん。どうせクラスで一番遅いねんから」
「あんたらアホちゃうか」
女神の目が光った。
「何がクラスで一番遅いや。自分が速くなるのが陸上やで。前の自分に1秒勝つのがどんだけすごいことか、あんたらわかってないやろ」
あれから、5月も終わる今日のこのときに向けて、地獄の猛特訓をつんできた。
いや、『地獄の猛特訓』というのは、3人でふざけてそう呼んでいるだけで、実際は地獄などではなく、きつかったがとても充実していた。
タイムは本当に1秒以上縮まった。
それ以上は何ともならなかったが「そんな簡単なもんやない」と福田沙紀は気にしていないようだった。
あと、1列。
「負けへんぞ」
ゴッチが言った。
「俺もや」
モンゲは答えた。
思ったことがある。
福田沙紀は「自分が速くなるのが陸上や」と言っていたが、自分が速くなったら、自然と、もっと速くなって、相手にも勝ちたいと思うものじゃないだろうか。
今まで、こんな気持ちで徒競走にのぞんだことはなかった。
ピストルの音。
前の選手が、砂を蹴立てて飛び出していく。
応援の歓声が遠ざかる。
モンゲは、前に誰もいない第3レーンのスタートラインに立った。
いちについて
体に力がみなぎっている。
ようい
これまでで、一番速く走る。
そして、となりの第2レーンにいるゴッチに勝つ。
ピストルの音と同時に、飛び出した。
同時に飛び出したゴッチの体が、急にがくっと低くなって、スローモーションみたいに転んだ。
(嘘やろ!)
第1レーンと第4レーンの選手が風のように遠ざかっていく。
モンゲは凍りついたようにその場に立ち、泣きそうな顔で起き上がろうともがいているゴッチを見つめていた。
「先生、走らしたって!」
泣きそうな声が響いた。
一番後ろの列で、福田沙紀が立ち上がっていた。
「二人だけ、もっかい走らしたって! お願い! 練習してきてん!」
2017/10/22 作者名変更のため更新




