表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【習作】描写力アップを目指そう企画  作者: 描写力アップ企画管理者
第一回 ヒトメボレ描写企画(2017.3.25〆)
28/268

拾い物 (北瀬多気 作)

※作者本人ページでも同作品を公開しています。

 包丁の柄が、手の一部になったようだった。汗ばむ俺の手にくっついた包丁は、柄の先を目の前の男の腹に押し込んでいる。ひっ……と、女みたいな高い声がした。些細な音に、臆病な心臓が騒ぐ。一度刃を抜いて、今度は胸へゆっくり刺した。男の腹と胸から血が、俺の手から汗が、床にポタポタとしたたり落ちる。頭を左右からプレスされているような緊張が続いた。根負けした俺の手が濡れた包丁から離れる。

 男の足がふらつき、倒れていく。酒とたばこで肥え太った男が転がると、古いアパートの床は悲鳴をあげた。

「お……」

 血まみれの男が何か言った。糞尿と、汚泥と、悪意を煮詰めたような声。男の腕がのろのろと胸のほうへ行こうとする。まだ動けるのか。

 刺さったままの包丁に汗まみれの手を伸ばす。俺の焦りをよそに、男は毛深い腕をぐったりと広げ、大の字になった。使い古されたちゃぶ台に男の指先が当たる。

 石油ストーブにのったやかんが、シュー……と細い湯気を出している。冬の夜は寒いだろうに、この部屋だけ真夏のように熱がこもっていた。


     ***


「終わったかい、父親殺し」

 玄関で待っていた(おさむ)が言った。台詞の印象とは逆に、どこにでもいそうな、平凡な顔立ちの男だ。紺のダッフルコートを着たひょろ長い体が俺を向く。

「父親、ねえ……。親云々以前に、あれは人間と呼べるのか?」

「人間の形をしてるんだから、そうなんだろうよ。じゃなきゃ、なんだ。鬼か怪物?」

「それはどちらも似たようなものだが、人間よりはしっくりくる」

 くだらないやりとりをしながら、俺たちは外階段を下りた。あの男を殺したら、修の車で逃げるつもりだった。行き先は決めていない。駐車場で修の車を見ながら、捕まったってかまわないのだから、どこでもいいか、と思う。

「悪い。ひとつ、忘れ物した。万年筆だ。頼めるかい」

 ぼんやり考える俺に、ポケットに手を突っ込んだ修が聞いた。万年筆は死んだ妹からの贈り物だと言っていた。修は母親を殺したが、母親にそっくりな妹は可愛がっていた。

「もちろん。寝室に置いていたよな」

「ああ。部屋間違えるなよ、隣の部屋はちょっとおかしいから」

 右手に車の鍵、左手に部屋の鍵を握った修が、薄い唇を歪ませる。

「おかしい? 何が」

 左手の鍵を受け取る俺に、修は笑いながら答えた。

「まあ、色々。ちょっと面白いけど、これから逃げる僕らには関係ないさ」

 その口調は、まるで間違えろと言っているようだった。

 だから俺は、わざと部屋を間違えた。

 修のアパートは、俺のアパートの向かいに建っている。負けず劣らずの古さだが、外側だけはこちらのほうが整っていた。迷わず二階に上がり、端部屋の隣に行く。修の部屋の隣のドア。インターホンを押したが、壊れているのか、何度押しても音がしなかった。

 なんとなく悔しくなったので、乾いた手をドアノブに触れさせる。驚いたことに、鍵は開いていた。ギイ、と古臭い音がして、部屋はよそ者をあっさり迎え入れた。

 人を殺したのだ、今さら罪が増えようがどうでもいい……俺は土足で入っていく。中は濃い雨のにおいがした。あまり使われてなさそうな台所。黄ばんだ小さな冷蔵庫。六畳ほどの和室には、ちゃぶ台以外何もなかった。

 正確には、ちゃぶ台と少女しかいなかった。

 真黒な、冬の海のような少女が立っていた。

 長い黒髪がうねりながら腰まで伸びている。しわくちゃのワンピースも黒。骨と皮しかなさそうな腕や足は真白で、同じく白い顔は、少女らしい丸みも頬の赤みも何もなく、貧相に痩せこけている。

「……いっしょに、遊ぶ?」

 少女が言う。子供らしさとはほど遠い、しゃがれた低い声だった。

 我に返ると、ぱっちりとした大きな灰色の目が俺を見上げていた。彼女の全身に行き渡るはずだった美を瞳だけが享受している。未知の魅力に皮膚が粟立った。健康的に太って綺麗な服を着たら、なかなか美しい娘になりそうだった。

 ごくり、と唾をのむ。少女の目は真冬の冷たい海のようで、見つめていると息をするのも忘れて溺れそうになる。

「なら、外に出るぞ」

 呼吸を思い出した俺の声は、無駄に荒かった。少女は何度かまばたきしながら、ひたすらに俺を見上げている。欲しい、と思った。同時に、赤ん坊に欲情しているような、どうしようもない罪悪感が体を駆け巡る。修はわざと万年筆を忘れたのだと気付いた。結局は俺も、あの男の血を引く鬼か、怪物だ。

「うん」

 少女は躊躇なく俺の手を握った。冷えきった小さな手に、心臓が大きく跳ねる。彼女の腕には銀色のブレスレットが光っていた。ブレスレットには細い鎖が付いていて、それは焼き切れたみたいに不自然に途切れていた。ヤニで汚れた柱に、同じデザインの鎖が巻かれている。

「いっしょに遊ぼう」

 それ以上気にしないことにして、俺たちは二人で部屋を出た。手を繋いだまま、修の万年筆を回収し、彼の待つ駐車場へと向かう。笑う修に、拾い物をしたと自慢するつもりだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ