拾い物 (北瀬多気 作)
※作者本人ページでも同作品を公開しています。
包丁の柄が、手の一部になったようだった。汗ばむ俺の手にくっついた包丁は、柄の先を目の前の男の腹に押し込んでいる。ひっ……と、女みたいな高い声がした。些細な音に、臆病な心臓が騒ぐ。一度刃を抜いて、今度は胸へゆっくり刺した。男の腹と胸から血が、俺の手から汗が、床にポタポタとしたたり落ちる。頭を左右からプレスされているような緊張が続いた。根負けした俺の手が濡れた包丁から離れる。
男の足がふらつき、倒れていく。酒とたばこで肥え太った男が転がると、古いアパートの床は悲鳴をあげた。
「お……」
血まみれの男が何か言った。糞尿と、汚泥と、悪意を煮詰めたような声。男の腕がのろのろと胸のほうへ行こうとする。まだ動けるのか。
刺さったままの包丁に汗まみれの手を伸ばす。俺の焦りをよそに、男は毛深い腕をぐったりと広げ、大の字になった。使い古されたちゃぶ台に男の指先が当たる。
石油ストーブにのったやかんが、シュー……と細い湯気を出している。冬の夜は寒いだろうに、この部屋だけ真夏のように熱がこもっていた。
***
「終わったかい、父親殺し」
玄関で待っていた修が言った。台詞の印象とは逆に、どこにでもいそうな、平凡な顔立ちの男だ。紺のダッフルコートを着たひょろ長い体が俺を向く。
「父親、ねえ……。親云々以前に、あれは人間と呼べるのか?」
「人間の形をしてるんだから、そうなんだろうよ。じゃなきゃ、なんだ。鬼か怪物?」
「それはどちらも似たようなものだが、人間よりはしっくりくる」
くだらないやりとりをしながら、俺たちは外階段を下りた。あの男を殺したら、修の車で逃げるつもりだった。行き先は決めていない。駐車場で修の車を見ながら、捕まったってかまわないのだから、どこでもいいか、と思う。
「悪い。ひとつ、忘れ物した。万年筆だ。頼めるかい」
ぼんやり考える俺に、ポケットに手を突っ込んだ修が聞いた。万年筆は死んだ妹からの贈り物だと言っていた。修は母親を殺したが、母親にそっくりな妹は可愛がっていた。
「もちろん。寝室に置いていたよな」
「ああ。部屋間違えるなよ、隣の部屋はちょっとおかしいから」
右手に車の鍵、左手に部屋の鍵を握った修が、薄い唇を歪ませる。
「おかしい? 何が」
左手の鍵を受け取る俺に、修は笑いながら答えた。
「まあ、色々。ちょっと面白いけど、これから逃げる僕らには関係ないさ」
その口調は、まるで間違えろと言っているようだった。
だから俺は、わざと部屋を間違えた。
修のアパートは、俺のアパートの向かいに建っている。負けず劣らずの古さだが、外側だけはこちらのほうが整っていた。迷わず二階に上がり、端部屋の隣に行く。修の部屋の隣のドア。インターホンを押したが、壊れているのか、何度押しても音がしなかった。
なんとなく悔しくなったので、乾いた手をドアノブに触れさせる。驚いたことに、鍵は開いていた。ギイ、と古臭い音がして、部屋はよそ者をあっさり迎え入れた。
人を殺したのだ、今さら罪が増えようがどうでもいい……俺は土足で入っていく。中は濃い雨のにおいがした。あまり使われてなさそうな台所。黄ばんだ小さな冷蔵庫。六畳ほどの和室には、ちゃぶ台以外何もなかった。
正確には、ちゃぶ台と少女しかいなかった。
真黒な、冬の海のような少女が立っていた。
長い黒髪がうねりながら腰まで伸びている。しわくちゃのワンピースも黒。骨と皮しかなさそうな腕や足は真白で、同じく白い顔は、少女らしい丸みも頬の赤みも何もなく、貧相に痩せこけている。
「……いっしょに、遊ぶ?」
少女が言う。子供らしさとはほど遠い、しゃがれた低い声だった。
我に返ると、ぱっちりとした大きな灰色の目が俺を見上げていた。彼女の全身に行き渡るはずだった美を瞳だけが享受している。未知の魅力に皮膚が粟立った。健康的に太って綺麗な服を着たら、なかなか美しい娘になりそうだった。
ごくり、と唾をのむ。少女の目は真冬の冷たい海のようで、見つめていると息をするのも忘れて溺れそうになる。
「なら、外に出るぞ」
呼吸を思い出した俺の声は、無駄に荒かった。少女は何度かまばたきしながら、ひたすらに俺を見上げている。欲しい、と思った。同時に、赤ん坊に欲情しているような、どうしようもない罪悪感が体を駆け巡る。修はわざと万年筆を忘れたのだと気付いた。結局は俺も、あの男の血を引く鬼か、怪物だ。
「うん」
少女は躊躇なく俺の手を握った。冷えきった小さな手に、心臓が大きく跳ねる。彼女の腕には銀色のブレスレットが光っていた。ブレスレットには細い鎖が付いていて、それは焼き切れたみたいに不自然に途切れていた。ヤニで汚れた柱に、同じデザインの鎖が巻かれている。
「いっしょに遊ぼう」
それ以上気にしないことにして、俺たちは二人で部屋を出た。手を繋いだまま、修の万年筆を回収し、彼の待つ駐車場へと向かう。笑う修に、拾い物をしたと自慢するつもりだ。




