帰還 (鳴田るな 作)
はぐれ竜は不安そうに目を瞬かせた。
促してやると、恐る恐るといった様子でゆっくりと厩舎から出てくる。
赤い口を開けて鳴くのは、どうやら「大丈夫か?」と確認しているらしい。
まだ幼い顔立ちをしているし、雛鳥気分が抜けきっていないのかもしれない。
成長した竜なら我々を顧みもしないのだろうが、どうも世話を担当した私の顔色を窺う癖が残ったままなのだ。
人慣れしすぎた竜は悲劇を起こす。
あまり情は与えないようにと努めていたはずなのだが、どうしても人情は出てしまうものなのだろうか。
しかし保護直後はもう駄目かとも思われた怪我だったが、ここまで回復してくれたことは素直に嬉しく、彼らの生命力には畏怖を覚える。
懐かれているような仕草に浮かれそうになる心を、改めて気を引き締める。
甘やかしてはいけない。ここが一番大事な所だ。在るべき場所に、彼らを戻すのが。
ゆっくりとした歩みではあったが、根気よく付き合っているとようやく飛び立ち台までやってこられた。
見たことのないそれに、しばらく臭いを嗅いだり手を出したり、果ては噛みついたり、行ったり来たり繰り返しながら興味を示している。
それだけ慎重なのになぜ落下するようなことがあったのかと苦笑しかけたが、あるいはその苦い経験こそ今の彼をネガティブにしている原因なのかもしれない。
しかし、人工物を警戒して近づこうとしない個体もいると聞くから第一段階はクリアだ。
第二段階はこの様子ならもう数日後になるだろうか。
いずれは施設を出ていってもらわねばならないが、旅立ちの日は今日でなくとも……。
そんなことが、ふと頭をよぎった瞬間だった。
それまでうろうろしていた竜が、真っ直ぐな足取りで飛び立ち台に向かう。
感触を確かめるように踏みしめたのは数歩。
そこで何か確信したかのように、翼を広げ、一気に斜面を駆け上がる。
まるで扱い方を知っていたような足取りだ。
ばさり、ばさりと大きく数度羽ばたかせれば、重みを受けて台が揺れる。
あまりに力強い動きに、台が折れるのではないかという心配すらよぎった。
終点までたどり着くと、一際ぐっと、ピンと伸びた二つの翼に、踏み切る足に力が入る。
空に踊り出した身体は、最初緩やかに下方に向かう。
はっと息を呑んだのも一瞬、泳ぐように進む彼は翼をたわめ、危なげなく落下用の網に充分距離を置いて上昇を開始する。
迷いなく行く先を操る姿は、舵を取る船乗りにも、手綱を取る御者にも似ていた。
風が強く吹いている。
高らかな咆哮が尾を引き、晴天に吸い込まれる。
こちらのあらゆる杞憂と心構えを置き去りに、あまりにもあっさりと、彼は空の覇者たる自分を取り戻す。
あるいは自覚ができていなかったのは我々……いや、私だけだったのか。
侮ってはいなかったか。空から取りこぼされ、我々と同じ場所まで落ちてきた存在を。
勘違いしていなかったか。彼を人間の目で見て、理解したつもりになって。
忘れてはいなかったか。あれは、人をずっと脅かしてきた存在なのだと。
ああけれど、我が身を恥じ入る暇が今は惜しい。
なんと幸福なことだろう。私はこの世で最も自由な生き物を、今この瞬間、この目で捉えているではないか。
なぜ忘れていたのだろう。私はこの時のために――これが見たくて、研究者になったのではなかったのか。
青の中で泳ぐ、彼は水を得た魚に似ていた。
悠々と旋回する様子はまさに威風堂々。
彼らならば望む場所どこへでも行けるのだと、見る者全てを納得させる説得力があった。
最後に一度、挨拶をするように長い遠吠えが放たれる。
それを最後に、彼の姿は自然へと消えていく。
人よりもずっと大きかった彼の姿は、やがて通常の鳥と見まごうほどの見た目になり、それから徐々に点に、それすらもなくなってしまう。
私はしばらく、彼の去った方から目が離せないままだった。
ただ、別れの一声と羽ばたきだけが、いつまでも耳の奥に残って響き続けていた。




