モディートの飛翔 (冴吹稔 作)
モディートは今日も島の端まで歩いて帰る。
雲魚釣りに使う短い竿と、一匹だけ獲物の入った籠をぶら下げて。くるぶしの痛みをこらえながら、てくてくと。
釣れなくても餓えたりはしない。母が残してくれた小ぢんまりした庭には、一年を通じて何かしらの実りがあるからだ。だがモディートはその庭の手入れもおろそかに、島の反対側にある釣り場まで、来る日も来る日も通い詰めていた。
「モディートさん!」
頭の上から朗らかな声が降ってきた。畑を隔てた西の通りに住んでいる、ナナダンという娘だ。彼女はモディートの背丈の三倍ほど上空を、ゆったりと飛んでいた。
ナナダンのことはよちよち歩きのころから知っている。モディートのような『損ない翅』にも隔てなく接してくれる、優しい娘だ。羽化の年頃を過ぎて四年、彼女は見違えるほど綺麗になった
「どうしたね、ずいぶん嬉しそうな様子じゃないか」
「縁談がまとまったんです! あたし、来年の春に南のナルマキ島へお嫁に行くことになりました」
名前だけは知っている。ずいぶん遠くの大きな島だ。彼はかすかに動揺を覚えた。
「そうなのか……そいつはめでたい。よかったなぁ」
二回り年下の娘を祝福する気持ちに、なにも偽りはない。だがナナダンが飛び去ったあと、モディートは足取りがいつにもまして重くなるのを感じた。くるぶしが刺すように痛む。
家に入るなり、彼は雲魚の籠を土間に放り投げた。
「こんなもの……!」
モディートは今や、自分がなぜ雲魚釣りに固執していたかを完全に理解していた。別に取り立てて美味いものでもなんでもない。
島の周辺の空をいくらでも飛んでいるのろくさい生き物で、普通に翅のある者ならすぐ捕まえられる、手軽なありふれた食べ物だ。
だが、彼のような『損ない翅』にとっては、雲魚は熟練が必要な釣りでしか手に入らない、手間のかかるものだった。
なんのことはない、モディートはただただ、人並みでありたかったのだ。人並みに雲魚を食べられていると自分を慰め、ごまかしたかっただけなのだ。
ナナダンが嫁ぐと知って、その欺瞞は吹き飛んだ。もとより彼にはあの美しい娘を伴侶に迎えることなど叶わない。それどころか、彼にはあの優しい娘を、晴れの日に島の外まで見送りに行ってやることさえできない。
モディートたちが棲むこの世界は、上下の果てもわからない広く深い空と、そこに点在する幾つもの浮き島からなっている。島から島へ渡るには、空を飛ぶしかない。
それから程なく。『損ない翅』の奇行が人々の噂に上るようになった。
釣り場に行かなくなり、夜遅くまで家に明かりを灯す。金糸グモの巣を探して歩く。知人たちから金を借りて回り、縫い針や鋏を買い入れる。
挙句に上衣を脱いで萎びた翅幹をむき出し、そこに重い太綱を結んで走り回る――近しい者は言葉を尽くして諫めたが、彼が聞き入れることはなかった。
ナナダンも心を痛めたが、もう嫁ぐ準備で日々忙しく、モディートのために費やす時間はなかった。
そして訪れた翌年の春。ナナダンが旅立つ日。
一つにつき十本の花綱で吊り下げた荷物をいくつも連ねた、付き添いの行列が島を出て、いよいよ花嫁の番がきた。陽光を受けて七色に輝く翅膜を拡げ、彼女が飛び立ったその直後。
何か奇妙なものが丘の斜面を滑り降りてきた。ざわめく人々の声に誘われて、ナナダンもそれを観た。
金色に輝く薄膜で出来た、不格好な作り物の翅が――それを背負った人が、駆け下りてきたのだと解った。
何ごとかとあっけにとられる人々の前で、それは危うくよろめきながらも風をつかまえ、行列から少し離れた場所で踏み切って空に浮かんだ。そして聞きなれた声でナナダンの名を呼んだ。
彼女は振り向き、呆然として叫んだ。
「モディートさん……!? どうして」
――見送りに来たんだ! 何とか間に合った……!
釣り竿に使う葦の茎を燻して黒くしたものを骨組みにして、金色のクモ糸で織られた薄布を張った、彼のための翅。
それを一つ、また一つと懸命に羽ばたかせ、モディートは行列を追いかけた。羽化に失敗した『損ない翅』にも、羽ばたくための筋肉と翅幹は残っている。この半年、作り物をこしらえながらそれを鍛えつづけてきたのだった。
生まれて初めて地面を離れた不安と高揚感。柔らかな風が頬を叩いてすり抜けていく。
「幸せになれよ、ナナダン! はは、今日は素晴らしい日だ!」
――ありがとう……! 元気でね……!
ナナダンの行列は遠ざかっていく。モディートは自分の高度が下がり始めているのを知った。翅幹がもう動かせない。
(当然だ。皆は毎日飛んでいる。俺は半年準備しただけ、飛んだのは今日が初めてで)
そして、これが最後だ――
今やモディートは力尽き、ゆっくりと空の底へ漂い下りていく。
だが目が痛くなるほど遠く眼下遥かに、空よりもずっと暗い輝きを帯び、うねり泡立つ巨大な水の壁が見えた。
そして、見たことのない色をした屋根の連なりが。




