天翔ける石像の女神 (燈真 作)
父と兄の祈りは石像と共に、少年に託された。
灰色の大理石に、ひたすらハンマーを振るいノミで彫り進める。梯子の下で懸命に呼びかけていた母は、いつの間にかいなくなっていた。喧噪は遠く、空には物々しい雲が立ちこめている。いくつもの船影がはっきりと見え始めてから、どれほどの時間が経っただろうか。滴る汗を腕で拭い、焦燥と恐怖をなだめながら、粉まみれの少年は一心不乱にノミを入れ、大きな翼に丁寧に羽根を描く。
あと少し。あと少しで、勝利の女神は誕生する。絶対に、島を守ってくれる。
その小さな島が持つ宝は、透き通った紺碧の海と、命溢れる緑の山々だけ。島人はその恩恵を受け、慎ましやかに暮らしていた。少年の父は彫刻家で、若い頃この島で採れる良質な石に惚れ込み、結婚したての母を連れ移り住んだ。兄や姉や少年が生まれ、兄弟は父の背中を追ってのみを振るうようになった。
けれど、ただ国境に位置していただけで、隣国に本土侵略の足掛かりにと狙いを定められてしまっただけで、戦火は容易く襲いかかる。本土の様子を見てくる、と海に出た父は、もう何ヶ月も帰ってこない。必ず探して連れて帰る、と約束して出て行った兄も、今どこにいるのかわからない。
「頼むぜヒューイ」
兄の硬い手が、少年の頭を強く撫でた。
「今日からは、お前があの女神像を彫るんだ。親父や俺の代わりに。必ず完成させてくれ」
岬近くの採掘所に隣接した工房には、父が本土から依頼を受け彫り進めていた女神像があった。少年よりも遥かに大きく、右足を前に今にも翼を広げて飛び立たんとする彼女は、勝利をもたらす女神だという。それなら、と少年は必死に問うた。
「もし完成したら、この島も勝たせてくれる? 守ってくれる?」
言葉を詰まらせた兄は珍しくも目を潤ませ、ぎゅっと少年を抱きしめ去って行った。
以来少年は、休むことなく女神の羽根を彫り続けた。敵船が近付く気配をひしひしと感じながら。手のマメはとうに潰れ、痛みもどこかへいってしまった。波のざわめく音に急かされながら、歯を食いしばり、少年はノミを握る。
昨日、姉の美しい髪が無残に短くなっていた。
「捕まって辱められるくらいなら、戦って殺される方がずっとマシよ」
毅然と言い放った姉が、夜中に母と泣きながら髪を切ったことを、少年は知っている。
「お願い、お願いだよ」
心の中で絶えず唱えていた言葉が、気づけば零れ出ていた。
「僕の家族を、僕たちの島を」
渾身の力で、最後の羽根を、彫り上げる。
「みんなを、守って。守って、ください」
「ふむ」
唐突に、声が聞こえた。
「この身体では長くは持たんが……ま、追い払うくらいはできるだろう」
父が丹精込めて彫り上げた佳麗な顔容がゆるりと動いて、ぽかっと口を開いた少年を見下ろす。言われるままに慌てて降りて梯子を外し離れると、その変化は、待ち構えていたように現れた。
羽根の一枚一枚が深呼吸をするように震え、風をはらんで見る間に膨らみ開いてゆく。石像だった女神は両腕を天に大きく伸びをするなり、膝に軽く力を溜め、次の瞬間放たれた矢のように工房を飛び出した。岬の先端で翼を広げ静止した女神の目前には、既に多くの敵船が迫っている。直後轟音と共に放たれた砲弾の数々に、咄嗟に少年は耳を塞いで地面に伏せた。変わり果てた女神像が、島が、瞼の下で広がった。しかし。
「恐れるな」
朗々とした声が脳裏に響く。片目だけを開いた少年は大きく喘いだ。
大きな弾が全て、女神が前へと伸ばした滑らかな右掌の先で止まっている。軽い呼吸と共に手が払われると、それらは弾かれたように返っていき、持ち主を轟音と水柱で包んだ。
「信じろ、少年」
翼越しに振り返り、幾重の衣を翻らせながら、勝利の女神が鮮やかに微笑む。
「今この瞬間、信仰は力だ。守りたいのなら、私を、信じろ」
大きく頷いた少年に軽く応じるなり、女神は岬を蹴って海上へと躍り出た。大きく広げた翼は純白。少年が彫り上げた羽根の全てが風を纏って歓喜に鳴り、羽ばたきに集い疾風を生む。両の翼で力強く空を打ちながら、撃ち落とさんと迫る砲弾を、女神は時にかわし時に蹴り落とし飛揚してゆく。いつしか衣は白く、重なる布は鮮やかな赤と青に染まっていた。黄金の髪は眩く、海を写した色の瞳は鮮烈に煌めく。たちまち敵船の上空に陣取った女神が両手を天に掲げると、雲が逃げ蒼天が、太陽が姿を現した。
「退け。欲深き者たちよ」
天から凜とした声が降る。
「さもなくば、次は天の焔が船を焼く」
撤退してゆく船を背に岬に舞い戻ってきた女神は、迎えた少年に軽く手を上げ刹那微笑むと、降り立った姿で時を止めた。もうあの神秘的で輝かしい姿はなく、ただ灰色大理石の石像だけが、穏やかに差し込む日の光を受け止めていた。
その女神の石像が、島の名前を冠され、本土のとある大きな美術館に飾られるのは、それから遥か後世のことである。




