見上げる森の白 (烏屋マイニ 作)
普通、女の子が空から降って来る事はない。
もちろん、啓太は、それくらいの常識は持ち合わせている。中学二年生ともなれば、空想と現実の区別くらいつけられて当然なのだ。ただ、自分が同じ状況に置かれた場合、絶対に親方を呼ばない自信があった。健全な男子であれば、何かいやらしい感じの展開を期待して当然だったからだ。
いや、だからと言って、意識のない女の子に不埒を働くつもりはない。それは、もう、人として終わっている。けれども、どうしよう。
夏休み。両親の帰省に付き合って祖母の田舎にやってきた彼は、暇を持て余していた。ケータイはろくすっぽ電波を拾わないし、WiFiもない。持ってきたマンガは読みつくしていたし、宿題は、まだ半分くらい残っているにしても、これは追々で構わない。
そんなわけで、カブトムシなどでも採ってみようかと、近所の山を訪れる。要領は心得ていた。アラカシやクヌギの木を見つけ、その幹を思いっきり蹴飛ばすのだ。すると、樹液に集っていた虫たちが、驚いて落ちてくると言う寸法だ。ノコギリクワガタならレア、カブトムシはスーパーレア、ミヤマクワガタはウルトラレアと言ったところか。そして、カナブン。やつらはノーマル以下だ。初めて見た時は、メタリックな色をきれいだと思ったが、うんざりするほどいるので、正直、邪魔っけ以外のなにものでもない。
この基準で考えると、女の子はシークレットになろうか。いや、待て待てと、啓太は自分の目を二度、三度と疑う。しかし樹上から地面に落ちてきたそれは、どう見ても女の子だった。
大きさは、せいぜい二〇センチくらいで、背中にはトンボのような翅も生えているが、それは些細なことだ。丈の短い緑色のワンピースの裾から伸びる真っ白い太ももは女の子だし、やや控えめのおっぱいも女の子だ。パンツも、きっと女の子に違いない。見ていないから、穿いていない可能性もないとは言えない。ここは、確認しておくべきか。
いけません、と啓太は自分の手をぴしゃりと叩く。ともかく、そのミニチュアの女の子は意識がなく、このまま地面に寝かしておくのは、いささか不憫に思えた。啓太は汗拭き用に持ってきたタオルを丁寧に畳み、地面に置いてから意を決して女の子の身体の下に両手を差し入れる。
温かい。柔らかい。ヤバい。もう、ずっとこのまま触っていたい――頭の中では様々な思いがぐるぐると渦巻いているが、身体は機械的に仕事を終えた。
ばくばく鳴る心臓が収まるのを待って、啓太はタオルの上に横たわる女の子を観察する。
栗色の髪は短めで、少しばかりボーイッシュな感じ。翅もきれいだ。差し込む木漏れ日を受けて、少し虹色に光る。しかし、顔が何かの液体で、べたべたに汚れているのは、いかがなものか。なんだか、すごくいやらしい感じがしないでもないが。
不意に女の子が、ぎゅっと顔をしかめた。ゆっくりと瞼が持ち上がり、緑色の瞳が覗く。可愛い――と、啓太は見惚れるが、女の子はいきなり立ち上がり、険しい表情で啓太に指を突き付けた。
「おまえかー!」
女の子の口からは、鈴の音ではなく普通の日本語が飛び出した。
「え?」
女の子の剣幕に、啓太はぎょっとする。
「ごはん中に、木を揺らしたでしょ。とぼけないでよ!」
「あー……うん、ごめん」啓太は思わず謝った。「ごはん?」
「そうよ。もう、樹液に顔を突っ込んじゃうし、落っこちるし、最悪!」
女の子はぶつぶつ言いながら、顔に付いた液体を手で拭い、それをぺろぺろと舐めた。
啓太は、彼女がカブトムシやクワガタに混じって樹液をむさぼる姿を想像し、ひどく残念に思った。
「うえっ、ちょっと土付いてた」
女の子は、ぺっと唾を吐いた。本当に、残念だ。
「大体、木を揺らして落ちてくるのは、私みたいに可愛らしい妖精さんばかりじゃないんだぞ」
狙っていたのはカブトムシやクワガタだが、ともかく啓太は頷いた。やはり、妖精だったようだ。
「スズメバチとか、ムカデがいることだってあるんだから」
「うん、わかった。ごめん」
啓太は少し考えてから、持ってきた飼育ケースに手を突っ込み、昆虫ゼリーを取り出して、女の子に差し出した。
「なによ、これ?」
蓋を開けてやると、女の子は臭いをかぎ、ぺろりと舐めて目を丸くした。「あら、おいしい。なに、もらっていいの?」
「うん。おわびだから」
「わかってんじゃん」
女の子はカップを両腕で抱え、満面の笑みを浮かべた。そして翅をせわしくなく動かしながら、ゆっくり上昇する。
「じゃあ、私行くけど、もうバカなことするんじゃないわよー」
そう言い残し、枝葉の隙間を抜けて上空へ飛び去る女の子を目で追いながら、啓太は色々なものを失ったような気になっていた。そして同時に、大きな収穫も得ていた。
彼女のパンツは、白だった。




