(青葉穂束 作)
「わあ……」
丘を登り切り、眼下の風景に思わず声が零れた。
高層ビルなどの現代的な建物はどこにもない。見渡す限りの草原には白い羊が点々と草を食み、石造りの素朴な家々が肩を寄せ合うように並んでいる。殆どの家が煙突を持ち、その中の幾つかからは薄く煙が上がっていた。あの煙突は飾りではないらしい。
ロンドンの遙か西、コッツウォルズ地方である。学校の友人に、祖父母が住んでいるのでこの夏一緒に行かないかと誘われたのだ。
普段は寮生活だが、夏休みで自宅に帰っても両親はどうせ仕事で忙しいし、一人では帰国も許されないだろうからと、彼は一も二もなく飛びついた。
送ってくれた母親は挨拶をして早々に帰ってしまった。先に来ている友人は、お使いで隣の集落に行っているらしい。じじばばといても退屈だろうから行っておいで、と友人が訪っているはずの住所を教わって送り出され、現在に至る。
丘を降りていく途中で道は小川に沿い、緩やかに下って集落へ続いていく。おそらくアヒルだろう、白い鳥が流れにぷかぷかと浮いていた。
(ええと……ここ、かな?)
見慣れない石造りなのに加え、似たような外見の家ばかりなので、いまひとつ自信が持てずに彼は目的地と思しき家の前に立った。
木製の扉には呼び鈴はついておらず、金属のノッカーと取手があるだけで、少々緊張しつつ彼は扉を叩いた。ややあって扉が開き、若い女性が顔を出す。
「Hello?」
綺麗な人だな、と思った。
年はおそらく彼よりも五つは上だろう。薄くそばかすの浮いた白い頬と、やや垂れ気味の青い瞳。緩く波打つ長い金髪を無造作に纏め、右肩に流している。白いシャツとデニムのパンツというラフな出で立ちに、キャンバス地のエプロンが妙に様になっていた。エプロンには絵の具かペンキの汚れが幾つもついており、それ自体が一つのアートのように見える。
「Is it for something?」
「あ……すみません」
我に返り、思わず口を突いて出たのは母国語だった。英国で暮らして二年になるが、英語が不自由なく話せるようになっても咄嗟に出るのは十年暮らした日本の言葉である。
理解できなかったのだろう女性は、きょとんと目を瞬いた。彼は慌てて首と手を振り、英語に切り替える。
≪突然すみません。僕は長谷裕太と言います。ここに友達が来てるはずなんです。フィル……フィリップって言うんですけど≫
≪ああ、ワトソンさんところの。それなら隣よ≫
「隣?」
同じような家ばかりなので、一つ間違えてしまったらしい。思わず左右を見れば、その様子がおかしかったのか女性はくすりと笑った。その笑顔に心臓が跳ねる。
≪いらっしゃい。一緒に行ってあげる≫
≪え、あの、でも……≫
戸惑う裕太を置いて、女性はすたすたと歩いて行ってしまった。慌てて追いかければ、隣家につく前に誰かが飛び出してくる。
≪ユータ!?≫
≪フィル!≫
≪なんでここに……あれ、リザさん?≫
フィリップは裕太の隣にいる女性を見上げて首をかしげた。リザと呼ばれた女性は、淡く笑んでなんでもないというふうにかぶりを振り、踵を返す。去り際にぽんと頭を撫でられ、裕太は彼女の背に急いで声を投げた。
≪あの……ありがとうございました!≫
リザは振り返らず、軽く片手を挙げて自分の家へ戻っていった。もう少し話してみたかったと思い、裕太はそう感じる己に驚く。どうしてだろうと考える間もなく、フィリップに肩を叩かれた。
≪どうしてリザさんと?≫
≪話すと長くなるんだけど……フィルこそ、なんで外に出てきたの?≫
≪窓からユータが見えたからさ。―――なんだ、こんなに早く着くならお使いなんて引き受けなかったのに≫
それは気にするなと、裕太は事情を説明した。フィリップは呆れた様子で首を竦める。
≪じいさまってば、電話でも寄越してくれればいいのに。でもまあ、会えて良かった≫
笑みを浮かべ、フィリップは裕太を家の中へと促した。
≪とりあえず、入ってよ。もう少しかかるみたいだから≫
フィリップと一緒に入った家の中は、外からのイメージを裏切らず牧歌的だった。カントリーふうとはいうのを言うのだろうなと見回しながら、裕太は再び尋ねる。
≪ここ、よくくるの? お使いって何?≫
≪……って訊くってことは、じいさまもばあさまも本当に何も説明しなかったんだな……まったく。―――ここ、じいさまの友達の家なんだ。山羊のチーズをくれるってんで、貰いにきた。じいさまが作った野菜持って≫
≪なるほど。羊は見たけど、山羊もいるんだ≫
≪ここは農家ばっかりだからね。まあ、そんな感じで、ここにいる間は結構頻繁にお使いに使われるんだ。じいさま、おれのこと伝書鳩か何かだと思ってるみたいでさ≫
言葉の割にフィリップの声は楽しそうで、裕太は笑いながら頷く。
≪じゃあ今年は伝書鳩が二羽に増えたね≫
滞在している間にこちらへ何度かこられそうだと考えるだけで、今年の夏はとても楽しくなりそうな予感がした。




