死者トンボ (151A 作)
九州の方言を使っていますので分かりづらいところがあるかもしれません。
ハタ パタ ハタ
ふらふらと墜落しそうな飛び方をしているその虫を最初はトンボだと思った。
だけどトンボにしては左右にひとつずつしか羽がないし、のっぺりとした黒色をしていてかなり気味が悪い。
落ちた蝶が最後の力で飛ぼうと頑張っているみたいな羽の音も良くなくて、聞いているとそわそわするので無視して家まで急いだ。
「ただいまぁ」
「おう。お帰り。早くなかか?」
玄関で運動靴を脱ぎ捨ててテレビのある部屋に入ると縁側で新聞を読んでいたじいちゃんがのそりと顔を上げた。
左手に持った団扇でぬるい風をかき混ぜるもんだから、窓際に置いてある蚊取り線香の匂いがこっちにまで漂ってくる。
「せっかく早起きしたとにラジオ体操休みやった」
「おうそうか。もう、盆休みか」
「知っとったらもうちょっと寝られたとに」
扇風機の前に座り首の動きを目で追いかけているとじいちゃんが新聞をペラリとめくって「早起きは三文の徳っていうとぞ」なんて聞き飽きたことを言うから回るハネに向かってあー、あー叫んでもやもやを吹き飛ばす。
「なんも良かことなか」
気持ちよく寝ているところを起こされて行ったのに広場に誰もいなかった時の頭の中に空白が広がる感じは、お母さんが重い病気だって聞かされて心も体も動かなくなった時とちょっと似ていて苦しかった。
それに。
気持ち悪か虫ば見てしまったし。
「そうだ。じいちゃん、さっきトンボんごた黒い虫見たとけど、あれなんの虫か知っとる?」
「黒いトンボ?ああ、そいは」
じいちゃんはちょっとずつ青くなっていく空を見上げ眩しそうに目を細め口だけで笑って。
軒下の風鈴がチリンと鳴った音に重なるように「たぶん死者トンボやな」と教えてくれた。
「死者トンボって?」
「お盆に死んだ人の魂を乗せて帰ってくるっていわれとる」
「え!?じゃあさっき見たあいは」
誰かの魂を運んどる途中やった?
背中の骨の上をゾゾッと震えが走り抜ける。
お化けなんて信じていないけど、さっき見た虫の不気味さには「ありえるかもしれない」と思わせるだけのものはあった。
「芳美さんもあれに乗って帰ってくるかもしれんな。どれ、準備せんば」
新聞を畳んでどっこいしょと立ち上がったじいちゃんをぼんやりと見ているとすれ違いざまに頭を撫でられた。
「なあ提灯はどこなおしたかな」
「仏間の押し入れになかったら倉庫じゃなかね」
台所にいるばあちゃんとじいちゃんのやり取りを聞きながらゴロリと寝転がる。
古い畳が毛羽立っていてチクチクして痛いけれど、今日はなんだかそれがふさわしい気がしてそっと目を閉じた。
ごめんね、たっくん
お母さんがいつもそうやって謝るから寂しいなんて言えなかった。
会いに行くたびにどんどん痩せていくお母さんの病気が治ることはないんだって分かってても素直になれずに。
結局最後まで甘えられないままのんきに給食を食べている間にお母さんは死んでしまった。
だから実感がなくてちっとも泣けずにみんなから「強い子やね」って変な褒め方されて、お父さんからは「可愛げんなか」と責められて。
もし。
もう一度会えるとなら。
なんて言おう。
「たっくん、たっくん」
ゆさゆさと揺すられて頭がカクンと腕から落ちた。
ばあちゃんに「片付かんけんがお昼食べて」と起こされて冷やしそうめんをすする。
時計を見るともう三時を回っていてそんなに寝てたのかとびっくりした。
食べ終わった食器を流しに持っていって忙しそうなばあちゃんの代わりに仕方なく洗って片づける。
じいちゃんが顔を出して「迎え火をするけん来い」とすぐに引っ込んだので後を追うと玄関先には白い提灯が下がっていた。
赤茶色のお皿の上にオガラを重ねて火をつけようとしていたので隣にしゃがむ。
三年前にこれが麻の茎からできていて悪いものを祓い清める効果があるとじいちゃんから教えてもらった。
火はあっという間に赤く燃え、ゆらゆらと揺れながら白っぽい煙を細く立ち昇らせていく。
埃みたいな匂いがして涼しい風が通り抜ける。
ハタ パタ
あの音が聞こえて顔を向けると黒いトンボが家の前の道をふらふらと行ったり来たりしているのが見えた。
じいちゃんが笑って「お帰り芳美さん」って呼ぶとそれに応えるように羽を大きく動かしてこっちへやって来たけど。
本当にあれはお母さんなんだろうか。
もし違う人の魂だったら?
迷っている間にどんどん近づいてくる。
こうして正面から見たら小さな人間が腕を広げて飛んでるようで。
なんか、やっぱり。
怖い、と後ろに下がりかけた時。
スイッと地面に降りた死者トンボが蝶のように羽を重ねて閉じた。
まるで手を合わせて。
謝るように。
ごめんね、たっくん
風の音の向こうに母さんの声が聞こえたような気がしてドキリとする。
「おか、さん?」
返事するように羽を二回開け閉めするのを見ていると不思議とボロボロと涙が出てきて。
ワケが分からないまま理解する。
難しかことなんてない。
息を吸って。
「おかえり、お母さん」




