幻翅痛 (Veilchen(悠井すみれ) 作)
幻翅痛、という広く知られた病がある。とうに退化したはずの翅が引き裂かれるかのような、幻の痛みを感じる病気だ。特に思春期の少年少女に多く発症する。幻の翅は痛みだけではなく、空への強い憧れをもたらす。患者は、時に見えない翅を広げて空へと飛び立とうとさえするほどだ。
無論、今の人間の背に翅はない。地に叩きつけられた若者の悲報に、大人たちは必ず痛ましく眉を顰めて俯き、哀悼の意を示す。若い日の憧れは、老いた者の胸にも確かに甘く疼いているから、それを宥め鎮めるためにも。
研究所と聞いて訪ねた場所は、ほとんど森だった。辺りを見渡しても、木々の間にそれらしい建物はない。本当に、ここで幻翅痛の有効な治療法が発見されたのだろうか。もっと楽な格好が良かったな、と考えていると、微かな羽音が私の耳をくすぐった。
「虫……?」
鳥の羽ばたきではない、もっと密やかな振動を思わせる細く高い音は、蜻蛉あたりの羽音のようだった。でも、こんなにはっきりと耳に届くような音を奏でるのは、どんな巨大な虫だろう。太古の密林に迷い込んでしまったのか、などという埒もない空想に囚われかけた時――眩い煌きが、目を射った。次いで、羽音が耳のすぐ傍で鳴り、子供の甲高い笑い声が弾ける。
「あ、お客さんだ!」
「キシャさんだよ、センセーが言ってた」
声は、空から降ってきていた。楽器の弦を擦り続けているかのような、陽気な音楽めいた羽音も、また。煌きの源もそうだ。そうと認識してなお、信じ難くて私は喘ぐ。
「嘘……」
陽を透かす翅は、箇所によって翠や碧や紅の色を帯び、羽ばたきと共に虹色の光を振りまく。翅脈が描く細かな模様は、ステンドグラスさながらの美しさだ。中空で震え歌い、煌く翅を纏うのは、無邪気な笑顔の子供たち。創造主が拵えたという夢物語の、妖精が現実に現れたかのようだった。
「案内してあげるね」
「競争だよ!」
呆然と佇む私に、子供たちは得意げに宙返りをして見せた。一瞬見えた背中には、確かに翅が直に生えている。機械の仕掛けではないのだ。目眩を感じる間にも、翅の煌きと笑い声は遠ざかってしまう。
「待って――」
慌てて足を踏み出した瞬間、背中に痛みを感じた。空を飛ぶ子供たちが、青春時代に少しだけ罹った幻翅痛を蘇らせたのか。羽化の時の痛みにも似て、私にも翅が生えるのではないかとあり得ない夢を抱かせる。
私たちは、自ら翅を捨てたのに。
森の奥にやっと見つけた建物に、先生と呼ばれる人物はいた。白衣を纏った彼の前には、椅子に座らされた少年が私に背を向けている。裸の上半身に萎んだ花のような襞が垂れ下がっているのを見て、胸と背がまた痛む。あれは、翅だ。幻翅痛によるものだけでない、嫉妬が私の身体を苛んでいる。自分でも訳が分からないが、翅を持つ子供たちが羨ましくてならなかった。
「ここは――」
「すみません。今、大事なところなので」
「先生」は私を一顧だにせず、挨拶さえさせなかった。彼の神経はただ少年だけに向けられているようだった。
「――今、君の体液が翅脈に通っていっている。翅の感覚は、あるかい?」
先生の言葉通りだった。最初は萎れていた少年の翅が、みるみるうちに咲いた。白っぽく不透明だった翅がぴんと伸び、透き通っていく。いかにも柔らかく脆そうだった膜が翅脈が、飛行に耐える硬質さとしなやかさを帯びていく。その目覚ましい変化は、枯れた花が水を得て蘇る様を見るようだった。
少年は背に生えた翅を数度羽ばたかせると、跳ねるように立ち上がった。
「すごい、先生。もう痛くないよ!」
もう、ということはこの子も幻翅痛の患者だったのか。私の背中の皮膚が攣るように疼いた。私の幻翅痛は、もう収まったと思っていたけれど。
ひと段落がついたと見て、私は先生に歩み寄ると口を開いた。
「これが、治療なのですか?」
「翅がないから痛むのです。もともと我々にあった器官だから、実は飛ぶための筋肉も残っているのです」
私たちの横で、少年は歓声を上げながら真新しい翅を羽ばたかせている。宙に浮く爪先や自ら起こす風になびく少年の髪が視界を過ぎると、私の幻の痛みが記憶の底から呼び起こされた。
「だから――翅の移植もできる、と? とうに退化したものかと」
「退化させた、のでしょう」
「先生」はさらりと述べたけれど、私は室内の温度が一気に下がったように感じた。彼が触れたのは、誰もが知っているけれど敢えて口にはしない類のことだから。
「創造主の姿を真似て、虫から作られたことを恥じて、二本の手と二本の足に自身を閉じ込めたのです。けれど、人間の姿はこうと限ったものではないでしょう。創造主だって偶然そのように進化しただけだ」
「…………」
何も言えないでいる私に、先生は微笑んだ。私の背中の疼きを見透かしているのだ。
「幻翅痛は、我々の本能の悲痛な叫びなのかもしれません」




