春に向かって飛べ (外宮あくと 作)
切り立った崖の突端に、僕は立つ。
上空を飛び回る沢山の仲間たちは、僕が来るのを待っていた。早くおいでと声なきエールを贈りながら。
僕らは春に生まれ、夏にぐんぐんと成長して、秋の終わりに翅を生やして空に飛びたつ。冬が来る前に温かい土地へと移動するのだ。そして春にまた戻ってきて次の子どもたちを産む。
遠い昔から、僕らはこうして命を繋いできた。
僕らと似た姿で言葉を話す生き物たちは、僕らを妖精だとか天使だとか呼ぶ。でも僕らは彼らと同じで、この世に産まれた生き物のひとつだ。
秋は僕らにとって旅立ちのとき。そして恋をするとき。
僕は、沢山の仲間たちがわんわんと羽音を上げて飛び回る空を見上げ、あの娘を探す。飛べなきゃあの娘と夫婦になれない。飛べなきゃ春に子どもを産めない。翅は大人になった証でもある。
心配そうに見つめる瞳を見つけて、僕は小さく頷いた。今日こそ翅を生やして、空を飛んでみせると。
今年生まれた仲間の中で、翅がないのはもう僕だけだ。みんなとっくに自由に飛びまわっているのに。背中はぽこりと盛り上がりムズムズと痒くて、翅は今にも顔を出しそうなのに、ちっとも出てきてくれない。
僕より後に生まれた奴が、飛ぶと宣言した翌日にすんなり翅を生やした時は、泣きたくなるほど悔しかった。
翅の無い者は一人減り二人減り、風はどんどん冷たくなり、僕は冬の気配に焦りを募らせた。
大きな岩から飛び降りれば、翅は出てくるだろうか。――地面に転がっただけだった。
もっと高い木から飛び降りれば、空を飛べるようになるだろうか。――固い大地に叩きつけられただけだった。
皆が心配する中、何度飛び降りても翅は生えてこず、傷だらけになるばかりだった。
でも、諦めるわけにはいかない。一緒に次の春を迎えよう、子どもを産もうとあの娘と約束したのだから。冬になる前に飛べなければ、凍えて死ぬことになるのだから。
そして僕は、海に突き出た崖の突端に立ったのだった。
鳥たちが教えてくれたのだ。何年か前にも僕のようになかなか翅が生えてこない者がいて、この崖から飛び降りたところ見事飛べるようになったのだと。勇気があれば必ず翅は生えてくると。
遥か下方に白波と槍のような岩がいくつも見える。飛べなければ確実に死ぬだろう。恐ろしさに震えるが、今は鳥の話を信じるしかない。
僕の為に仲間たちの旅立ちを、これ以上遅らせてはならないのだ。
ドクドクと激しい音を立てて心臓が暴れまわる。これが最後の挑戦だ。もう後は無い。
飛ぶんだ。
生きて春を迎えるんだ。
少し助走を付け、そして地面を蹴った。息を止めて、背中に神経を集中させて。
体重を支えるもののない空間に躍り出ると、急速な落下に尻がすぼまり胃が絞め詰められた。びゅうと風がうなる。
僕の名を呼ぶあの娘の声は、まるで悲鳴のようだった。
僕は飛ぶ!
君と一緒に!
僕は生きる!
次の子どもらのために!
強風に目を瞑りたくなるのを懸命にこらえる。両手を広げ、歯を食いしばって、少しでも空を見ようと顔を上げる。
「翅よ! 春に向かって飛べ!」
海がどんどん近づく。
ガツンと体の内側から背中を叩く衝撃。
胸が破れそうな激しい鼓動。
熱い血が全身を駆け巡り、そして背中の一点に目がけて一斉に集まってくる。そこに滞っているものを押し出すように。
ついに、僕の翅がボコボコと皮膚の下で蠢き始めた。
潮の匂いが、恐ろしい程間近に迫る。
僕は腹と背に力を込め、懸命に翅を押し出す。
空を飛ぶんだ、生きるんだ、もうそれしか考えられない。
飛沫が頬に跳ねた。
「あああああ!」
唐突な激痛に背中が反り返った。
ドクンと脈打ち、勢いよく二対の翅が飛び出した。瞬時に大きく左右に広がり、硬化する。無我夢中で翅を動かすと、ビビビビビと鋭い羽音がした。
僕は獣のような唸りを上げ、渾身の力を込めて羽ばたく。その羽ばたきが起こした風が、波の飛沫を更に舞い上げた。
海から突き出た鋭い岩に貫かれる寸前で、僕は落下を止めていたのだ。
全身が軋んで痛みに目が回った。でも翅が風を切る音を聞くだけで、僕は恍惚となる。うっとりと夢心地で空へと舞い上がっていくのだった。
背を見れば、仲間より二回りほど大きな翅が生えていた。大きすぎてつっかえていたのかと、思わず唇が緩んだ。
痛みはもう歓喜に変わっていた。僕は上空の喝采に向かって昇ってゆく。涙を流して微笑むあの娘のもとへと。
胸が震えていた。気が付けば僕の頬も濡れていた。
僕は今、空を飛んでいる。己の意志で自由に飛んでいる。愛しい人と手を取り合って。祝福してくれる仲間と共に。待たせてごめん、そしてありがとう。
海の向こうを目指して、群れが動き出した。恋の相手を探しながら、求愛の歌を歌いながら、じゃれ合うように飛びながら。
さあ、行こう。
冬が来る前に旅立とう。
そして恋をしよう。
温かな場所で巣ごもりをして春を待とう。
僕らは春に向かって飛んでゆく。
次の子らにこの命を繋なぐために。




