いかずちの翼 (深海 作)
※作者本人ページでも同作品を公開しています。
「わあ、すごいね」
足を止めたのは、その人だけだった。豊かな顎髭を蓄えた、壮年の男ただ一人。
石畳の通りを行き交う人々は、道の脇に散らばるカンバスなど、見向きもしない。
すりきれたズボンに、ボタンが取れたシャツ。垢で汚れた裸足の浮浪児が描く絵なんて、一体誰が気にとめるというのだろう。
「ずいぶんたくさん……全部、鳥の絵かな」
「ちがう、てんし。でも、うまくかけない」
素晴らしいよと、顎髭豊かな男は目を細めて、子どもを褒めた。
子どもは、口をむっと真一文字に引き結んだ。不機嫌な顔で黒いパステルをにぎりしめ、白いカンバスにごりごりと描く。
たしかにそれは、羽を生やした天使だった。
頭には冠。足には炎。翼からほとばしるのは、激しい稲光。
「このてんし、くちからひをはくんだ」
子どもは説明しながら、天使の口から炎を吐かせ、翼の周りに雷を描いた。
「そんでこの――」
「ちょっとごめん」
顎髭の男は、黒いパステルを持つ子どもの手をそっと掴んだ。
「なんだよ、じゃまするなよ」
「いやでも、このパステルも紙も、私のだよ。君、私の工房にこっそり入って、盗んでいっただろう?」
「……そんで、このかみなりは、あくまとかびょうきとかをこっぱみじんにするんだ」
「おいおい、無視しないでくれ」
子どもに手を払われた顎髭の男は、まったく怒らなかった。くすくす笑ってしゃがみこみ、子どもの絵にじっと優しいまなざしを注ぐ。思う存分、これでもかと、隙間無く稲光が描き込まれるまで。
雷は狂わしく躍り、飛び跳ねて、カンバスの外にまで漏れ、鋭く長く轟いた。それは幾本も太く激しくぎらぎら光って、石畳を裂いた。
石畳の合わせ目にパステルがあたって、ぽきりと折れた時。子どもはハッと、絵が画面から漏れていることに気づいた。渋々手を止めた彼に、男はにっこり微笑んで、大きな手を差し出した。
「もういいかな? 画材を返してくれ、金髪巻き毛くん」
「いやだ。おちてたからひろったんだ」
「確かに、整理整頓できずに、床にばらまいていた私が悪いっちゃ悪い。でもそれが落ちていたのは道ばたじゃない。私の工房に落ちていたんだから、私のものだ」
「やだ……おれ、もっとかく。またしっぱいした」
子どもは、目にいっぱい涙をためながら、折れたパステルを両手に握って背中に隠した。
「その天使、実に素晴らしいと思うが」
「だめ。もっときれいなの、かかないと。そんで、びょうきのねえちゃんにあげるんだ」
人は生まれてから死ぬ時まで、天使の加護と執り成しを受けている。
天使に祈れば、願いは神に届く。そう信じられているから、多くの人々が、天使の絵を護符にしている。値段はぴんきりだが、薄紙に描き殴られたものすら、この子は買えないのだ。たぶん親がいないのだろう。
「私が描いてあげようか?」
「やだ」
「でもこれ以上の物を描くには、時間をかけて修行しないといけないよ? 病気の快癒を願うのだったら、一刻も早く完成させた方がいい」
「やだ……やだ……」
歯を食いしばって後ずさる子どもの肩を、髭の男はそっと掴んで引き寄せた。
「じゃあ、一緒に描こう」
「う?」
「君はパステルを持つ。私は君の手首を持つ。さあ、やってみよう」
ましろのカンバスに、勢いよく線が引かれる。
それはたちまち優美な翼を成して、天を舞い始めた――
* *
鮮烈な金色に染まった大筆が、瑠璃色に塗られた工房の壁を滑っていく。
金髪の若者は、高価な顔料を惜しげも無く使って、がしがしと描き殴った。
絹のシャツの袖で充血した目を拭いながら、がむしゃらに。
「先生……!」
かつて師と一緒に描いた天使の絵は、御利益てきめん。姉の病は完治した。
師は浮浪児を弟子にしてくれ、手取り足取り教えてくれた。
お菓子に上等な上着にぴかぴかの靴。何でも買ってくれたから、若き弟子は密かに期待した。
もしかしたら、先生は自分を養子に?
だが――
『国王陛下が、君の絵を痛く気に入ってね。宮廷画家として雇ってくれるそうだ』
『お、俺の絵は全部、先生と一緒に描いたものです』
『いや、私は少しも自分で動かしてなかったよ。君が不安がるから、手を添えてただけさ』
弟子は青ざめて否定したが、師は本当だよと笑った。
『さあ、勇気を出して、ここから飛び立つんだ』
満面の笑顔に見送られ、弟子は渋々、城に入った。
だが着いた早々、虫の報せめいたものを感じた。
急いで工房に舞い戻ったら、師は、血を吐いて倒れていた――
「先生、死なないで!」
手が震えて、筆が暴れる。色が弾ける。狂おしく。
寝床で、師が泣き笑いしている。
「断腸の思いで、私の籠から出したのに」
「先生も城に来て。先生の言う通り、俺、一人で描ける。でも、俺の絵を見てよ……俺が描くもの、これからも、全部見てよ!」
空の高みで天使が舞う。
若き画家はしゃくりあげながら、瑠璃色の壁面に雷光を轟かせた。
凄まじい熱量を放つ光が辺りに満ち満ちて、まばゆい神気が師を焼いた。
奇跡を、起こすために。
2020/12/09 作者本人ページでも同作品を公開のため、注を追記




