桜守の後継 (燈真 作)
※参考文献:『桜守のはなし』(佐野藤右衛門/作 講談社)
※作中終盤の収入に関する描写は作者の推測が含まれており、実際とは異なる可能性があります。
寒さが和らぎ、草木が寝起きの伸びを始めた頃。その一報がもたらされるなり、穂永は仕事を全部放ったらかして電車に飛び乗った。新幹線と電車とバスを乗り継ぎ計三時間。山間の小さな町にある祖父の家に駆け込む。
「伯父さん、俺の接ぎ木した桜、蕾つけたってホント!?」
再会一番、年甲斐もなく食いついた穂永を、伯父は半ば呆れて見上げる。
「嘘なんかつくか。だいたい、仕事はどうしたんだ」
「親方に許してもらえた。帰ったら三倍働けって」
同じ植木職人だからだと穂永は知っている。普通の会社で「自分が初めて接ぎ木した桜が十七年越しに蕾をつけたので休みます」なんて、確実に却下される。
許される理由はもう一つ。穂永の祖父は日本でも数少ない「桜守」で、穂永はその後継だからだ。
祖父はいつも桜と共にいた。川辺の桜。山の樹齢云百年の桜、植物園の名物桜、台風で倒れた公園の桜。桜を守り、育て、継ぐ。木が己の身体に異変を感じた時、すぐさま手をさしのべる。それが「桜守」という仕事だと、穂永は小学生に上がる頃に知った。
咲いてもいない桜の何が良いのだろう、と思っていた穂永が、初めて祖父の仕事を間近で見たのはある夏休みのこと。自由研究に工作や朝顔日記はつまらない、と変なこだわりを見せた彼に、父親が提案したのが祖父への取材だった。
「この時期に桜の仕事なんてあるの?」
素直にぶつけてみると、祖父は真顔で答えた。
「桜にとっては、咲いていない時期のが大切だ」
軽トラに揺られ三十分。市立公園の主たる風格で緑を茂らせる桜に、祖父は脚立をかけた。年齢を感じさせない軽さで登ると、両足と片手で身体を安定させながら、腰のポーチから魔法のように色々なものを取り出す。木づち、ルーペ、双眼鏡。ペンライトが出てくることもあった。しかし、穂永が訊かない限り、何の説明もしてくれない。
何してるの?「見とる」何を?「ここの穴」何の穴?「こりゃ虫だな」どーすんの?「これを使う」それ何?「注射器」なんで?「ここに酒が入っとる。それで退治す」なんでお酒なの?
万事これである。ようやく木から下りてきた時には、穂永のノートは鉛筆の汚い走り書きで真っ黒になっていた。
二日間の取材の帰り際、祖父は一つの鉢をくれた。去年の初夏に種から育て始めたという、まだ三十センチほどで幹もか細く頼りない、山桜の苗だった。
困った時の祖父頼みでどうにか育てること数年。中学生も終わりに近づいた春、初めて花が二輪咲いた。穂永が思わず写真を送ると、祖父からすぐに来るよう連絡があった。最寄り駅で出迎えてくれた軽トラに乗り一時間、さらに一時間山に登った先。他の木々が遠慮したかのようにぽかっと空いた空間で、悠然と咲き誇る山桜の老木が、穂永を待っていた。
「お前んとこの桜の、親だ。あん時は元気がなくて、後継を残すしかないと思っていたんだがな。少ーしずつ持ち直して、今年はこんなに花を咲かせた」
子への愛情が遺伝子を渡って、親にも染みたのかもしれんな。皺だらけの手を皺だらけの幹に添えて目を細め、祖父は青空に良く映えた白い花々を見上げる。
愛情だなんて。面映ゆさに頬を掻きながら、穂永も祖父が守ってきた桜を仰ぎ見た。
進路に農業高校を選んだのは、それがきっかけだったのかも知れない。
人生初の接ぎ木をした日は、今でもよく覚えている。冬の終わりがぼんやり見え始めた頃、祖父の仕事仲間とも一緒に城址公園に向かった。台風の直撃を受け枯れ始めた桜が必死に育んだ新芽の枝を切る。何カ所か切ると、祖父はその一枝の切り口近くに伸びる新芽を一つ切り出し、穂永に差し出した。
「くわえとけ」
「へ?」
「早くしろ。切り口が乾燥しちまう」
一人一つ新芽をくわえ車に戻る、奇妙な光景ができあがった。
「じいひゃん、まああめ?」
「あめあ。がまんひろ」
結局祖父の家に着くまで、穂永は口に広がる独特の苦みに耐え続けた。裏手に用意された台木に切れ目を入れ、新芽を差し込んで藁で巻く。ようやく解放された口を緑茶で労りながら、穂永は小さなその接ぎ穂を見下ろす。
「いつ花が咲くの」
「二十年後くらいだな」
祖父の年齢を数えてみて、穂永は微妙な顔になった。察した祖父がその背中を叩く。
「見届けるまでは死なん」
バタバタと家の裏手に回ると、逞しく育った桜の下、すっかり腰の曲がった祖父が待っていた。もう車の運転もできない。
「じいちゃんどれ!?」
「あれだあれ」
皺だらけの指がさした先、薄桃色の蕾を見つけ、穂永の口から歓声が溢れる。
この仕事に就いて改めて、「桜守」が高度な知識と技術、そして報酬を超えた献身の精神からなっていることを知った。もともと、植木職人の見入りは基本的に平均を下回る。祖父が慈善で引き受けているものも多いようだった。
それでも。穂永は祖父の丸い背中に手を当てる。巡り育つ桜の命を守りたいからこそ、この仕事を自分は受け継ぐのだ。




