家具の音楽 (観月 作)
※作者本人ページでも同作品を公開予定です。
ガラス窓から入る日差しは柔らかく、暖かだった。
枝を伸ばす銀杏の木は、もうすっかり葉を落とし、三階のレッスン室の窓からは、大学構内を行き来する学生たちの様子がよく見えた。
きりりと尖った冬に向かう前の、神からの贈り物のような暖かな日。
人間というのは不思議なもので、どんなに遠く離れていようと、国籍が違おうと、人種が違おうと、心動かされる物事というのは共通しているらしい。小春日和。インディアンサマー。様々な呼び方で、木枯らしの緩むひとときを愛でる。
「こいつなんだが」
僕の思考を、北長の言葉が遮断した。
思考のしっぽが逃げていく。
しかたがない。ここはこの大学の教授である北長のレッスン室で、僕は彼の相談にのるためにわざわざここまでやってきたのだから。
北長は僕の様子にはまったく頓着せずに、ノートパソコンの画面をこちらに向けた。
暗い画面には、真っ黒なタキシードを着た若い男の横顔が映っている。
北長がマウスを操作すると、小さく聞こえていたピアノの音が大きくなった。
ドビュッシー「喜びの島」
柔らかく転げ回る音の粒。けぶるようなベルベットの音色。オレンジ色の楽園。
「僕の生徒なんだけどね。来春卒業なんだよ。君のところで面倒見てもらえないかなあ」
「僕のところ? 君、勘違いしてないか? 僕の事務所は彼のような才能を求めちゃいないよ。こいつは、演奏家を目指してるんだろう?」
僕は画面の中の男を指差す。
躊躇も羞恥もなく、音楽に没頭し、内なるものを表現できる男だ。こんな自信ににみなぎった人材を、ウチの音楽事務所では求めていない。
家具の音楽。
ドビュッシーと同じフランス人ではあるが、僕が求めるのはサティの提唱した「家具の音楽」だ。音楽が主役ではなく、家具のように人々の生活にそっと寄り添う音楽。俺が俺が! と人々の目を引きつけるような才能ある演奏家はお呼びではない。
プロの音楽家を志すものならば、己というものを承認してほしいと考えるはずで、そんな扱いは本位ではないはずだ。ましてやあれだけの才能だ。
けれども、そういう場所で生きていくことのできない種類の人間だっている。才能があろうとも。いや、才能があるからこそ、駄目になっていくものだっている。
自分の演奏を聞いて欲しい、褒めて欲しい、認めて欲しい。それ自体は悪い感情ではないのだろうが、その気持が妬みの種に水をまき、暴力にまで育て上げることだってある。
演奏家としてのし上がる者は、どんな妬みにさらされようと、孤独に落とされようと、折れることのなかった者だ。
僕は動かなくなった自分の左の指を思わずさすっていた。
「まあ、これ見てくれよ」
ドビュッシーが突然終わり、ショパンのバラードが始まる。
画像に映るのは同じ学生。だが……。
「なにが、あった?」
ひりつく喉の奥から、北長に問いかける。
「この一つ前のコンクールをこいつは棄権してる。何やら嫌がらせがあったらしい。ようやく立ち直って……新日コンクールに出場したんだがな、そのさなか嫌がらせの犯人がわかったんだよ」
「知り合いだったのか?」
「親友さ。まあ、こいつがそう思ってただけなんだろうがな」
なるほど。それでこの演奏。あまりメンタルが強くないのか。だが、先程の演奏ではそんな雰囲気は微塵もなかった。純粋培養ですくすく育ったお坊ちゃまか。
「お前のところも、実際問題厳しいって聞いてるぞ。演奏者の確保がなかなか難しいんだろ? 名前も出さない、紹介もなし、ただ結婚式やらパーティーの片隅で演奏だけして帰るなんて、自己顕示欲の強い演奏者はやりたくない仕事だもんな。演奏者が確保できなくて、依頼を断ることもあるって話じゃないか」
北長の言う通りだった。僕の事務所は家具の音楽であることを徹するために、演奏者の名前を出すことはご法度だ。拍手されることもない。ただのバックグラウンドミュージックとして演奏することに徹底している。それ故に、自分の演奏と名前を売りたいと考えている演奏家たちには、敬遠されてしまう。
「こいつは今、人前で演奏することに恐怖感を持っている。自分という人間と音楽に向けられる感情に、悪意があると気づいちまったわけだな」
「自分というものを出さずに演奏することができるウチに、白羽の矢があたったと……」
「お互い損はないと思うぞ」
ニヤリと北長が口元を歪ませた。
2019/05/06 一部修正、及び作者本人ページでの公開分について注を追記




