桜の卒業 (北瀬多気 作)
梅原紅は音もなく暗転転換を済ませて裏へ走った。
市民会館の小ホールでも、舞台は舞台。本番でのミスは許されない。今日は特に。
「紅ちゃん。ヅラがチャックに絡まった」
先ほどまで舞台に立っていた女性が、眉を下げて紅を見上げていた。
上品なバラ色のシフォンドレス。胸の繊細なレース編みも、腰に巻かれた黒いサテンのリボンも、既製品にも劣らない自信がある。黒いレースの手袋に、首元までレースで覆った堅苦しい衣装だが、あえてこのデザインにした。オフショルダーでは隠せないから。
「着替えあるのに!? 次十分後っすよ」
紅は背中側に回ると、急いで衣装と格闘し始めた。「痛いかも。ヅラだけど」呑気に笑っている場合ではないのに。舞台を降りると、この看板役者はポンコツだ。
「髪、少し切りましょう。処刑シーンだし、乱れてるくらいがちょうどいい」
言いながらハサミを動かし、紅は一気にドレスを脱がせた。背中が露わになり、
「紅ちゃんのドレス壊しちゃったね」
へらりと笑う女性が振り返った。いや、女性らしいのは圧倒的な美貌のみだ。女性特有の柔らかさとは無縁の胸板が紅を向く。華奢な印象とは裏腹に程よくついた筋肉。骨ばった手。声は高めだが、よく聞けば紅と同じ、男のものとわかる。
「いいから早く着替えて、桜井さん。最後の舞台でしょ」
子供のように笑ってうなずくと、桜井はドレスを床に放って新しい衣装を受け取る。手が震える紅と違い桜井は平然としていて、どこまでも通常運転だ。
演技だろうか。
紅がそう願っているだけかもしれない。
「本当に辞めるんですか」
気付けば紅はそう口にしていた。背中のボタンを留めながら弱々しい声でつぶやく。
「看板役者ですよ。昔大手事務所のスカウトとか来てたくらいの。それが……」
「俺がいなくなるの寂しい?」
恥ずかしげもなく言う桜井に、紅は口を尖らせる。
「そりゃ、八歳からの付き合いなんで」
生まれつき体が大きく、周囲と馴染めなかった紅にとって、劇団は居心地がよかった。趣味の裁縫は馬鹿にされるどころか歓迎され、がっしりした体は裏方で長所に変わった。誘ってくれた桜井のおかげだ。
その桜井がいなくなるのに無関心ではいられない。
「ごめんね。前から決めてたんだ。芝居は十九までって」
「どうして」
「十代の魔法が解けてしまうから」
芝居がかった台詞をごく自然に吐きながら桜井が笑む。
「周りの期待は理解してる。でも、俺も歳をとればおじさんになる。紅ちゃんのドレスが似合わない俺になって、美しさは過去になる。俺という輝きは永遠に失われるんだ」
桜井に悲愴感はない。事実を淡々と述べるだけ。傷ついているのは紅だ。
「美しさって永遠じゃないでしょ。老いれば枯れて、誰の目にも映らなくなる。枯れた花に水をやっても咲かない。そこまで縋りつくつもりないよ」
桜井は鏡の前で背筋を伸ばした。
今までのどのドレスよりシンプルな白い服。意図的な汚れとほつれ。端的に言えばみすぼらしい。看板役者の最後には似つかわしくない衣装だ。
死を決意した罪人の服。
「今日の俺を覚えていて。明日からの俺を殺して。もう会えないだろうけど」
「えっ」
「海外に行くんだ。留学」
向かいの袖で合図があった。間もなく舞台へ戻る桜井は優しく、子供に語りかけるように続けた。
「ね、お願い。女の子より女役が似合う、看板役者と呼ばれて輝いていた俺のまま、紅ちゃんの記憶を終わらせて」
「……」
「紅ちゃんの初恋の女の子のままで、さ」
「っ忘れてやる! あんたの存在全部!」
二度目の合図と同時に、紅は桜井の背中を押した。思いの外強く押しすぎたのか、桜井がよろける。紅がサッと青ざめた途端、桜井は笑みを浮かべて、踊りながら舞台に出た。世界で一番幸せだと言いたげに、見えない死神とのダンスを披露する。
狂った殺人者の最期に、観客が魅了されているのがわかる。トラブルすら演出に変えてしまう桜井は本物の役者だ。
忘れるなんて嘘だ。
出来るものか。
――美しさって永遠じゃないでしょ。老いれば枯れて、誰の目にも映らなくなる。枯れた花に水をやっても咲かない
命尽き果てる直前、とびきり激しく燃え盛る炎のように。長い人生の、ほんの始まりでしかない十代の終わりを、それが終幕とばかりに全力で駆け抜ける。
――十代の魔法が解けてしまうから
美しさとは何だ?
限りあるものでなければならないのか?
桜井の言う美しさは、きっと若さとか好奇心とか、生命力みたいな、大人になるほど失われていくもののことだ。
でも、それだけが美しさではないと思う。
薄汚れた罪人の衣装でも、断頭台に向かう桜井は誰より美しい。
美しさは永遠だ。老いても美しい人はたくさんいるし、今が人生で最も美しいかなんて、誰にもわからない。
紅の中で、桜井は美しい。永遠に美しい。その輝きをずっと追いかけていたい。彼のための衣装を作りたい。これほどまで引き寄せられる存在を、終わらせるなんてありえない。




