戴冠式 (甲姫 作)
女は恍惚としていた。
一生に一度の晴れ舞台、身にまとう絹は最上級。涼しげな金色に統一された衣装は、民衆の視線を絡めとって離さない。上半身を覆う肩掛け布と腰巻きスカートに刺繍された模様がそれぞれ違う上、数分ではたたえつくせない精密さを誇っていた。
体のラインを腰から足首までピタッとなぞるシンの束縛をものともせずに、女は優雅な所作で膝をついた。その拍子に――左肩から背中へ、背中から腰へと流れるパービエンの裾が風になびいて、豊かな胸を締め付ける布が垣間見えた。観衆の中には思わずため息を漏らす者もいた。
腰帯の花を模した装飾から右上腕の素肌を彩る腕輪、指輪から耳飾りや化粧まで、いっさいの隙なく着飾られている。探しても贅肉が見つからない、完璧なる美女。歳のほども一目見ただけではとうてい見破れたものではない。
しゃりりん、と手首に重なる腕輪を鳴らし、女は両の手のひらを胸の前で合わせる礼をした。
たっぷりとした黒髪はひとつに高くまとめられ、ここにきて珍しく、装飾がなされていない。この日が特別だからだ。簪などを挿していては、これから頭上に冠をのせねばならないのに、邪魔になる。
女は目を伏せ、口元にうっすらと笑みを浮かべて、儀式の完遂を待った。
戴く冠はなまめかしい宝石のティアラにあらず。
更に高貴なる黄金の「王冠」だ。
――夫亡き今、幼く愚鈍な息子たちでは役不足。
国民人気が高く、数々の政策を自ら提示してきた女は、己こそが君主に適任だと信じてやまない。
黄金の輝きは眼前に迫っていた。
まもなく、王国初めての女王が誕生する。
男はあくまで冷静だった。
見つからないよう、慎重に、民衆の隙をかいくぐって前列に迫る。
広場の左右最前席には王族貴族が座り込み、衛兵が佇んでいた。失敗はゆるされない。敵に最大の敗北と屈辱を味わわせるには、この日ほどの好機はほかにない。
妃が王と成ること自体が問題なのではなかった。もっと根深い、どす黒い、恨みがある。
男は上半身が裸だった。下半身にはパカマーと呼ばれる一枚の木綿布を巻いているが、どうにも異様に汚れてほつれている。庶民の群れにおいても目立つほどに。しかも黒いシミのついた麻袋といった、妙な荷物を持っていた。放つ汚臭に、周囲の人間が嫌そうに鼻に手をやる。
一方、王妃を取り囲む場面は水面のような静寂を極めた。寺院の代表者が王冠を手にした瞬間から緊張感は波状に広がり、誰もが息を止めて見守る。
まるで小さな城のような複雑な形状をした冠が、あと少しで王妃を女王に変えるところで。
「式を取りやめろ。その王冠は偽物だ」
低く、厳しく、威圧的に。男が静寂を打ち破った。
すぐさま衛兵が槍を構える。
「狼藉者めが、神聖なる儀式の最中ぞ。どこのどいつだ、死刑に処されたいか!」
男の周りの人間が左右にさっと潮を引いた。無礼者はこいつです、と言わんばかりに無数の指がさされる。
槍先がなんら妨げられることなく、男の首元にたどり着く。だが男はひるまずに挑戦的な視線を返し、麻袋から人間の頭よりも大きいものを取り出した。
「本物はここだ」
張り上げた声が、衆人を激しく揺さぶる。
確かに、掲げられた王冠はところどころに血痕がついてくすんでいるが、儀式に使われているものと寸分たがわぬ形状だった。汚れて悪臭を放つような男が持っているには不自然な代物である。
加えて、男は言葉の発音が整っていて、教養のある者に違いなかった。
動揺。飛び交う視線。そして一番に狼狽えて見せたのが、王妃だ。女は険しい表情で立ち上がった。
「まさか生きておったのか」
「そうだ、おれだ。おまえが策を弄して崖から落とした、王子チャックラバンドゥ、その人だ」
王子は群衆に語り聞かせるように、一段と響く大声を出した。
「兄王タナンドーンは病に死したのではない、その女に毒殺されたのだ! おれだけが目撃した! 真実を知りたくばそっちの王冠を水につけてみるがいい! 純度の低い金は、浮いてしまうだろう!」
どよめきが走る。皆、次々と露わになっている新事実についていけず、まず王子チャックラバンドゥが生きていたことだけでも大きな衝撃を受けていた。
「簒奪者パンティットラよ、今こそ裁きを受けろ!」
「ええい、この国に必要なのはわらわのような為政者であろ! 王族だというだけで何百年も玉座にあぐらをかいていた連中は黙っておれ!」
彼らの叫びを契機に、観衆は分断された。
王家に忠実な衛兵や貴族、真意はどうあれ王妃が施した政策によって暮らしが改善された庶民。優れた武器を持つ少数と、戦う術がなくともそれだけで圧倒的な、大多数。
広場は混乱にのみ込まれた。




