ゆるやかにほどける (深津 弓春 作)
アヤカがいなくなった後、僕の自室のクローゼットはある特別な女性用下着や肌着で埋め尽くされることになった。全て、アヤカが着用していたものだ。
下着や肌着と言っても、一般のブラやショーツではない。肌に密着するような形状のシャツやスパッツやタイツのようなものが大半だった。どれもグレーやブラックといった地味な色味で、下着や肌着にしては生地が厚手だった。生地表面には奇妙な繊維の束があっちにこっちにと走っており、木目や川の流れを連想させる不思議な模様を形成している。
僕はその内のいくつかを手に取った。
「何の意味があるんだ?」
僕は呟いた。それは、アヤカが遺した言葉への疑問だった。
これに何の意味があるのか。分からない。
けれど、遺言は無視できない。
僕は手に持ったアヤカの衣服をベッドの上に置き、淡々と全ての衣服を脱ぎさる。
脱いだら、後は着込むだけだ。
*
アヤカは十二歳ほどまでは割と元気だった。よく転ぶ子供ではあったが。
彼女が、そして周囲が、本格的に彼女の人生の難問に気付き始めたのは中学入学以後だ。
簡単に言えば彼女の肉体の筋繊維は徐々に壊滅していくようにできていた。遺伝性の疾患で、根治不能。少しずつ転ぶ回数が増え、ふらつきが目立ち、日常動作が彼女の生活からぼろぼろと零れ落ちていった。
アヤカと小学時代から仲の良かった僕にとってそれは不幸な話だったが、一方で幸運も一応存在していた。僕の父がある特殊な衣類の開発に打ち込む会社の、優秀な人材だったことだ。
パワード・クロージングというものがある。パワードスーツなどと呼ばれるような強化外骨格の、衣類バージョンのことだ。
父の会社は研究も兼ねて、アヤカにオーダーメイドのパワードクロージングをいくつも製作し貸与した。
貸与されたのは非常に先進的な最新モデルで、動作補助を極小モーターではなく人工筋繊維の収縮によって行うタイプだった。人体の筋構造を模して配置された幾条もの人工筋が仕込まれたそれは、着用者の神経信号を体表から非侵襲的に常時センシングし、動作を読み取り、自然な形で補助する。着用者にとっての「自然な動作」を模倣し、先読みして出力するのだ。更に衣服の一部に仕込まれた薄膜型コンピューターが動作を記憶し、使うほどにより使い易くなっていく。
アヤカはこの衣服によって数年間、自然な動作を取り戻した。歩き、持ち上げ、握り、立ち上がった。
けれど衣服は衣服だ。流石の最新型も、横隔膜や心筋など本当に大事な筋繊維は、どうにもできなかった。
動作補助は出来る。ただ、それ以上はない。
「ね、あのさ、一つ、お願いがあるんだけどな」
一度取り戻したものを再び色々失った後で、アヤカはそう僕に声をかけた。
着て欲しいんだけど、というのが、彼女の『お願い』だった。
「そういう趣味はないよ」
苦笑いしてそう返すのがやっとだった。君の肌着は君のものだろ、アヤカ。僕に着てみろって何だよ。何でだよ。
強張った苦笑い以上の表情を浮かべることが出来ずに、僕は高校三年間を過ごした。
卒業前にパワードクロージングは返却された。使用者がいなくなったから。
*
そして今も陰気な表情を顔面に貼り付けたまま僕は生きていた。アヤカの遺品は、ややきついが、意外にもあまり違和感なく着込めてしまった。
上から普通の服を着込み、特に行く先もないが外へと出る。玄関先で動力をオンにして、人工筋とその制御ソフトを作動させる。
その瞬間、視界に光が散乱した。
「なんだ?」
目を見開く。見慣れた住宅街の景色が視界一杯に広がっているだけだ。しかし、しかし――その景色全てに、何かちらつきを感じた。
きらきらと。何かが煌き、輝いている。
すぐに気がつく。これは物理的な光ではない。
首を動かし、景色を見回す。足を踏み出し、歩く。
全ての動作をアヤカの動作を記録し最適化されたパワード・クロージングが補助しようとする。『僕の動作』が、衣服の人工筋によって『アヤカの動作』に修正される。踏み出す足先の角度が僅かにずれる。腕の振り幅やスピードが調節される。
目に映る景色が輝き続けている。全ての色彩が鮮やかさを増している。
その美しさが、輝きを連想させる。
「動作だ……」
呟く。輝きも、鮮やかさも、何もかも。
世界を僕に美しく感じさせている原因は、動作だ。アヤカが着込んでいたこのクロージングに記録された、アヤカの動作だ。
信じ難かった。記憶でも感覚器でもない、ただの「身体動作の癖」が、世界の感じ方をこれほどに変えるのかと。
信じられない、と呟き、しかし僕は動作をやめられなかった。体を動かすたび、姿勢を正されるたび、アヤカの世界を感じることが出来た。僅かな背筋の角度や全身の微かな緊張と弛緩が、世界の感じ方を変える。
いつの間にか。
僕は、衣服に覆われていないはずの表情まで、修正されていた。
強張りが、ゆるやかにほどける。




