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【習作】描写力アップを目指そう企画  作者: 描写力アップ企画管理者
第五回 旅の一幕企画(2018.7.28正午〆)
162/268

折松さん (水野 作)

引用文献/夏目漱石『坑夫』岩波文庫

 どうやら私は『坑夫』の世界に迷い込んでしまったらしい。気がついたら十九の青年(その小説の主人公だ)と二人して松原を歩いていた。なるほど確かに松ばかりである。

 私の手元には実際に『坑夫』の小説があったので、松原を歩く間、暇だったので青年にちょっと見せてやった。いいかい、君はこれから掛茶屋のそばを通ることになる。そこで長蔵さんという人に会い、彼から「働く気はないかね」と訊ねられる。君は「働いてもいいですが」と返事をする。そうして彼と共に鉱山に向かうことになる。

 青年は半信半疑だった。当然だ。私だって同じ立場だったら信じない。だが実際にそう書いてあるのだから仕方ない。青年はしまいにはムスッとして何も言わなくなった。まあそのうち予言が的中するはずだ。今に見ているがいい。

 さらに歩くと、松ばかりの景色の中へひょこっと掛茶屋が現れた。「葭簀の影から見ると粘土のへっついに、錆びた茶釜が掛かっている。床几が二尺ばかり往来へ食み出した上から、ニ三足草鞋がぶら下がって、絆天だか、どてらだか分らない着物を着た男が脊中を此方へ向けて腰を掛けている」……何もかも書かれてある通りだ。

 長蔵さんに気づかれないよう、松の影に潜みつつ、私がその箇所を朗読してやると、青年は目を丸くしていた。「どうやらあなたの仰ることは事実のようですね」

「だからさっきから言っているだろう。この本には君の全てが書かれている。そしてこの本を読む多くの読者がいる。私の生きている百年後の世界では、君はすっかり有名人だよ」

「本当ですか」

「ああ」

「さいですか。それは好かったです」

 何がよかったのだろう。それに、私はちょっと嘘をついた。『坑夫』は漱石の小説の中でも特に読まれないものの一つだ。『海辺のカフカ』にタイトルが引用されたことで、ちょっとした話題にはなったが……

「ところであすこの男は長蔵さんと云うのですか」

 青年はおずおずと質問してきた。私はそうだがと答える。すると

「しかし小説の中の自分は、あの男が長蔵と云う名前だとは知らない訳ですよね。一体自分は、この後どう行動したら善いのですか」

 ん? よくよく考えれば困った事態だ。私の持っている岩波文庫版の『坑夫』では、36頁になってようやく「自分はこの時始めてどてらの名前が長蔵だと云う事を知った」という文章が出てくる。しかし現在、物語はまだ8頁に入ったところだ。これから青年は掛茶屋のそばを実際に通って、後に長蔵という名前と判明するあのどてら男に発見されなくてはならない。そしてこの時はまだ、青年は「長蔵」の名前を知らないのだ。

 だが今この時、『坑夫』の主人公である十九の青年は、どてら男の名前が長蔵だということを知ってしまっている。これはちょっと問題だ。

「とりあえず、君は向こうに出ていかないと……」

 物語が進めばどうにかなるだろうという気楽な思いで、私は青年の背中を押す。彼は彼で抵抗はしなかったが、私の方を涙目で見つめている。

「今、私が話したことは全てお忘れなさい。君は長蔵という名前を知らないんだ。向こうから口に出されるまで、君はその名前を一切漏らしてはならないよ。じゃあ頑張ってね。一区切りついたらまた合流しよう」

「一区切りって云ったってあなた、ちゃんと云って下さらないと」

「そうだな。この後君は汽車に乗るのだが、その前に長蔵さんと一緒に小便をするシーンがある。そこで君は長蔵さんより早めに出てくるんだ。そうして物陰で合流して、今後のことを相談しよう」

 それでも青年は不安げだったが、私は無理やり彼を松の影から追いやった。


 青年とどてらと、それから饅頭を売る神さんの一連の問答を遠くで見守りながら、さて私はどうなってしまうのかと急に心細くなる。ここが『坑夫』の世界であることはもはや疑う余地がない。鉱山までどれくらいかかったっけ? 詳しく調べようと早速『坑夫』を流し読みし始める。だが合間合間の文章が面白すぎて、なかなか前に進めない。

 次第に私は、これを一種のエッセイとして読んでいた。実際の地名は巧妙に伏せられているが、だからこそ今でも通じる普遍的な良さがある。漱石の後期の創作物とは違い、「軽さ」に重点が置かれている。「その山は距離から云うと大分ある様に思われた。……色は真蒼で、横から日の差す所だけが光る所為か、陰の方は蒼い底が黒ずんで見えた。……ともかくも蓊欝として、奥深い様子であった」。頭脳を用いて風景を一から起ち上げようとする努力が垣間見える。私もそれに倣い、松ばかりの風景を一から起ち上げてみるか……

 だが目の前にはただ乱雑に松が生えているだけで、とても美しい言葉で描写できるような代物ではなかった。それに自分で考えるよりも、人のを読むほうが断然面白い。私は表現することを諦めて、再び小説を読み出した。足下に折れた松が転がっていたが、これはきっと自分だなと思った。

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