金色の海 (Veilchen(悠井すみれ) 作)
上空からは黄金色の絨毯のように見えたものは、地上に降りてみれば収穫を控えて育った穂を揺らす、見事な麦の畑だった。
「わ……!」
護衛と見張りを兼ねる兵の壁の隙間からその金の広がりを見て、彼は感嘆の声を漏らした。生まれてから十五年というもの、彼が見聞きするのはほぼ白い神殿の中のものに限られていた。石の壁に遮られることがない青い空に雲が流れる様、初夏の山や森の目も眩むような緑の輝き、若い葉の香りが胸を満たす感覚。この旅路で味わうのは、彼にとっては、いずれも初めての感覚だった。
分けても、今目の前に広がる光景は格別だった。騎鳥を使っての急ぎの旅のこと、これまでは日没間近にわずかに周囲の様子を窺うだけだったのとは違って、真上に輝く太陽のもと、金色の麦穂が波のように揺れる様を眺めるのは。波のように――神殿にも清水を満たした池はあったし、彼も海というものの存在は知識にあった。
視界いっぱいに広がる金色の麦の穂が、風が吹く度に揺れてさざ波を起こす。籠を負わされた牛が働かされているが、見えるのは背と頭、左右に張り出した角の先くらい。まるで金の海を泳いでいるかのようだし、籠は水面に浮かべた小舟のようだ。
水面に生じる波と違って、既に熟した穀物の香りがほのかに届く気がするのは、麦の味を知るからこその錯覚だろうか。胸まで届く麦穂を掻き分け、汗を拭いながら立ち働く民の頭上には、色とりどりの糸が張り巡らされている。鳥避けのためだと教えられたが、赤も青も緑も地上の黄金に映えて、その光景自体がひとつの見事な織物のようだった。
「我が国を支える穀倉地帯だと聞いてはいたが……」
「お気に召したようでよろしゅうございました」
このようなものとは、想像だにしていなかった。しみじみと呟いた彼に、傍らに跪く大神官が恭しく述べた。地に伏せられた怜悧な顔は、きっといつもの穏やかな笑みを浮かべているのだろう。でも、それも仮面のような礼儀上だけのものではなくて、得意げな感情が滲んでいるのではないだろうか。彼とそう歳が変わらないという大神官の、年相応の得意げな声を、彼は初めて聞いた気がした。
そして、それももっともなことなのだ。若くして高い地位を得たこの者が、手柄を誇るような風を見せるのは。
「わざわざ降りたのは、時間稼ぎをしてくれたのかと思った。だが、これは……もっと、凄いな……」
彼が溜息を洩らしたのは、単にこの情景の美しさのためだけでない。このようにしてつくられた麦が彼の口にも届き、あるいは国境を越えて他国の産物をもたらし、民を富ませ国を支えるということを実感として思い知らされたからだ。国を作るのは、民だ、という――もちろん、書物の上ではとうに知っていたことではあるのだけど。民の暮らしを思い遣れ、とは王たる父にも何度となく教えられたことなのだけど。彼は今まで、本当の意味で理解してはいなかったのだ。
「お陰で恐れも消えたと思う。ありがとう」
この旅路の目的地は、父や母が住まう都だ。特別な星の巡りのもとに生まれた彼は、今年の夏至の祭事で天に帰ることになっている。地上の仮初の肉体は、そのために心臓を抉り出されるのだ。
星の子が長く地上にあれば、真の父母たる太陽と月の怒りを買うことになるだろう。一方、正しい儀式に則って彼が帰れば、この国は長く天の加護を約束される。あるべき場所に戻るだけ、仮初の人生とはいえ王家に生まれた身だから、民のためでもあると言い聞かせてはいたのだが。心臓に刃が突き立てられることに恐れがなかったかといえば嘘になる。
でも、それももう過去のことだ。天上での生など今の彼には知る由もないが、地上での生に、それを終えることに意味があるのだと、たった今確信することができた。美しく愛しい民の暮らし――それを守ることは、確かに彼のちっぽけな命以上の価値がある。
「殿下の御心が安らかであることが、私めの悦びでございますから」
「そなたには世話を焼かせたと思っている……」
死にたくない、都になど行きたくないと言って泣き喚いた夜もあったのを思い出して、彼は苦笑した。そして最後に名残惜しく金色の麦の海を眺め渡すと、踵を返す。翼を畳み、羽繕いに余念がない騎鳥たちの方へと。
「そろそろ行こうか。遅れる訳にはいかない」
「御意に」
騎鳥に跨って空へと舞い上がると、民も牛も煌く糸も、瞬く間に黄金に溶け込んで見えなくなった。けれど構わない。彼は地上に生きる者たちのことをしっかりと脳裏に焼き付けた。
風を切って、風とひとつになって駆ける――彼の心に曇りはなかった。




