旗 (燈真 作)
旗が立つ条件を知っているか。
1つ。未来を語ること。
1つ。約束を交わすこと。
1つ。素晴らしい景色を、共に見ること。
「やだ」
宿の1室、にべもなく切り捨て書物に意識を戻す魔術師の少女を前に、剣を携えた少女は両手を腰に当て頬を膨らませた。
「えぇぇ、行きましょうよエク。せっかくこの近くなのよ? 明日の朝には魔神の本拠地に乗り込むのよ? 今行かなくていつ行くのよ!」
「別に行っても行かなくても明日は来るし、来ようと思えばいつだって来られるじゃん。やだ」
「つまらないわねぇ! ほら、気合いを入れると思って! なんなら私の一生のお願いだと思って!」
一生のお願い、という言葉に肩を震わせ、それはもう深いため息をつくと、エクはパタリ、と本を閉じた。
「仕方ないなぁ」
「やった!」
「ただし!」
少女の鼻先に指をつきつけ、彼女は矢継ぎ早にまくし立てる。
「ボクはあくまでファネのお守り! 行くだけだからね! 絶対、一緒に見ないからね!」
わかったわかった、と満面の笑みで両手を握ってくるファネに、彼女はヒクリと片眉を持ち上げた。
西の空を終の陽光が一筋駆けてゆく。夜の穏やかな闇が太陽の残り火を全て消し去ったのち、それは始まるという。街のはずれにそびえる、樹齢は万を超えると噂の大樹。『大樹の祈り』と呼ばれるこの季節にだけ現れる光景を一目見ようと、麓にはすでに多くの人が集まっていた。
「いよいよね!」
「だーかーら、ボクは見ないって言ったでしょー!」
腕にがっしりしがみつかれてなお、エクはジタバタもがいていた。
「せっかく来たんだから!」
「そうだぜ嬢ちゃん、何もったいねぇこと言ってやがる」
「外野は黙っててもらえますかぁ?! やだってば!」
ファネの両腕から自分の腕を取り返そうと躍起になるエクの耳に、その呟きは届く。
「……そんなに、私と一緒に見るの、嫌……?」
ハ、と息を呑んだ、次の瞬間。2人はどよめきに包まれた。
しゅるりと1つ。そばでまた1つ。大樹の枝に、薄ら光が生まれる。女性の両手を合わせたほどの花の蕾が、透ける花びらの奥に大切そうに橙色の光を抱いていた。いくつもの蕾が膨らみ、花開く瞬間を待ちわびている。暗闇が少しだけ退き、最大の見せ場への膳立てをする。大樹の枝々がすっかり淡い橙色に包まれ、人々の期待が最高潮に達した時。エクとファネは確かに、大樹の深呼吸する音をきいた。それは、まるで力を解放する予兆のようで。思わず2人目を見合わせた刹那、歓声が沸き起こった。
解けるように花びらが開き、橙色の光がふわりと花弁を離れる。次々と開く花々、燐光を零しながら揺れ浮かぶ橙。知らず互いに手を握った2人の足元に風が戯れ、大樹へと向かう。四方から集まった風は、今や大樹の根元で全ての花が開ききるのを待っていた。
「ちょっと、なんで目を瞑っているのよ」
目聡く気づいたファネに責められて、エクは俯いていやいやと首を振った。
「見たくない」
「ここにきてまだそれを言うの?」
「言うよ! だって!」
「ねぇ、エク」
見て。
耳元で囁く声に、まるで魔法のように顎をとられてまぶたを開かされた。ファネは魔法なんて欠片も使えないのに、その声音に抗う隙すら与えてもらえなかった。
空気が柔らかく揺れて、風が螺旋を描きながら大樹の幹を昇ってゆく。『大樹の祈り』のクライマックス。幾筋にも分かれ、花から橙色の光を愛おしげに受け取り、他の光と遊び舞いながら徐々に大樹から離れ、人々の頭を越えて東の空へと飛んでゆく。明日も世界に光あれという人々の祈りを、ああして夜明けの太陽のもとへと届けるのだと、誰かが吐息と共に語るのが遠く聞こえた。
「ねぇエク」
「聞きたくない」
どんなにエクが耳を塞ぎたくても、片腕はファネの腕の中、片手はその手の中。
「エクが何を怖がっているのかはわからないけど」
「聞きたくないってば」
視界がぼやけて、橙色の光が幾重にもぶれた。
「この光に誓うわ。明日私は絶対、エクを死なせない。大丈夫よ」
光が反射して煌めくエクの瞳から、幾粒もの涙が頬をつたっていく。片腕を解放して、ファネはそっとその頭を己の肩へと引き寄せた。
「だからね、今度は嫌がらないで、一緒に楽しく見に来ましょう?」
ね? ポンポンと優しく頭を撫でると、ファネの胸元にいくつもの水滴が落ちた。
「……やだ」
「もう……」
駄々っ子のように拒否の言葉を繰り返す彼女を、ファネは苦笑いと共にそっと抱き締めた。2人の上をまた1つ、橙色の光が飛び立っていった。
エクの脳裏に声が届く。
条件一致。
ファネ・ソルタに死亡フラグを設定いたしました。
「だから、やだって、言ったんだ……」
これまで何度も立ちかけては死に物狂いで回避してきた、彼女への旗。ここにきてとうとう、捕まった。
「まだ、まだ何か、手があるはず」
優しい彼女だけは──己が代わりに果ててでも。




