最後の七分 (冴吹稔 作)
壁に掛けられた古風な機械式の鳩時計が十六時半を指した。象牙に似せた練り物の、小さな鳩がばね仕掛けで飛び出してきて、澄んだ声で一回だけ鳴いた。
ティモシー・マクブライド警部補は作業中のワークステーションから顔を上げて眉根を揉んだ。
彼は本日付けで定年退官することになっていた。この引き継ぎ書をまとめ上げて後任に渡せば、三十年続けた仕事もいよいよ終わり。明日からは悠々自適の毎日だ。
といっても、今後の見通しはごく地味なものだ。帰るところといえば分署から徒歩十五分の、狭苦しいアパート。終日手入れをして過ごせるような庭も垣根も、お茶を入れてくれる伴侶もありはしない。
ティモシーは首を振って目を閉じた――なに、俺の人生も最悪というほどじゃない。
行きつけの店で買うバゲット風の自家製パン。それにお気に入りのハイランド・モルト――ほのかな泥炭の香り。
感傷に浸るティモシーの耳元で、ふいに小さな警告音が鳴った。年来の相棒、キースからの呼び出しだ。
「どうした?」
〈ティモシー、仕事を少し急いでください〉
「……何だ?」
妙なことを言い出す、とティモシーは怪訝に思った。キースは人間ではない。分署のネットワーク・サーバー内に常駐した個人用のサポートプログラムだ。
人間に極めて近い仮想人格を持ち、現在では対ティモシーに最適化されている。だがこれまでこんな風に彼の行動を指図してきたことはなかった。
〈二ブロック先の監視カメラが、不審な人物を捉えました。すでに一時間の間、付近を移動しながら当署の方向をしきりにうかがっています〉
「犯罪者データベースに該当者は?」
形式的な質問だった。キースならその程度、自力で判断してとっくに済ませているはずだから。
〈ネイザン・コナー、麻薬密売の罪で12年前に収監。一週間前に刑期を終え、ベッドフォード刑務所を出ました。つまり前科者ですね〉
ああ、それなら納得できる――ティモシーはうなずいた。コナーを逮捕したのは誰あろう、ティモシー自身だった。キースと組むようになる以前に挙げた、さほど多くない功績の一つだ。
「なるほど、大体読めたぞ」
〈ええ。市警の広報サイトがあなたの退官を報じたのは、コナーが出所した二日後でした。彼の意図は間違いなく、あなたへの意趣返しでしょう〉
やれやれ、ひどいことになったものだ。ティモシーはぼやいたが作業の手はむしろ早くなった。
出来あがったファイルをオフィスのネットワーク内に置かれた共有領域に保存し、後任者にはパスワードを記したメールを送った。終業。退勤まで十五分――
「終わったぞ。俺はどうすればいい、キース?」
〈いったん表玄関から出て、地下駐車場に向かってください。そこで彼を待ちましょう〉
「なるほど」
ティモシーにも、キースの立てたプランは大体想像がついた。
駐車場の薄暗がりには、数台の乗用車がうずくまっていた。その一台の傍らに立って、ティモシーは煙草に火をつけた。
ひょろりとした長身の人影が、夕暮れの黄ばんだ光を背にこちらへ近づいてくるのが見えた。
ネイザンは自分から先に声をかけてきた。
「久しぶりだなあ、マクブライドの旦那。元気そうで何よりだよ。あと十分早いが、退官おめでとう」
「何の用だ? ねぎらいの花束でももらえるのかな?」
「人を十二年もぶち込んどいて、そりゃ虫が良すぎだろ」
ネイザンの右手にはいつのまにか、三十八口径のずっしりした拳銃が握られていた。
「両手を頭の上にあげな。ゆっくりだ」
ティモシーはその通りにした。
「やっとこ楽隠居の身分になったところで、あんたは死ぬってわけ――」
勝ち誇るネイザンの顔をふいに光が射た。
「うっ!?」
たじろいで左腕を顔の前にかざした彼へ、無人の乗用車が突進する。
「突っこめ、キース!!」
衝突を避けてバランスを崩し、ネイザンは無様にコンクリートの床に転がった。ティモシーはその機を見逃さず、飛びついて腕をねじり上げ手錠をかけた。
「残念だったな。十七時までは、この覆面パトカーは相棒がコントロールできるんだ……十二年前にはこんなものはなかったが、お前はムショの中で少々勉強が足りなかったな」
いくら前科者でも、不審だというだけでは逮捕できない。ティモシーの退官後は、キースが彼を守ることもできない。
だから、キースはあえてネイザンに手を出させたのだ。
「お疲れ様でした、ティモシー。退官おめでとうございます」
「ああ。ご苦労だった。お前さんはいい相棒だったよ」
キースの通報で外回りの巡査たちが駆け付け、ネイザンを確保した。そして、残された七分は何事もなくゆっくりと過ぎていった。
「……何かあったら、いつでもご自宅の端末から呼び出してください。市民への行政サービスという形に限定されますが、これからもお役に立てると思います」
ティモシーは無言で煙草に火をつけなおし、深々と吸った。時計を見ると十七時を一分回っていた。




