路地裏のリドル (坂巻 作)
こいつは助からないな、と思った。
灰色のスラムに身体を投げ出してぴくりともしない。ハエを払う素振りもない。胸の上下はあいまいで、なにより出血が酷い。そうだな。「健康な身体」を朝食にぴったりの「こんがり焼けた一枚のトースト」に喩えるとしよう。
苺ジャムがべったり、なんてレベルじゃない。フレンチトーストだ。ぬちゃっとしてぐしょぐしょ。分かってもらえただろうか。
俺は立ち尽くし、変わり果てた赤いシルエットを見降ろしている。
いちいち驚くことじゃない。夜を友とし刃を逆手に、生命を金に替えて今日まで生きてきたのだから。
ただ日常と違っているのは、俺は独りで立ってるってこと。
稼業を分割してる相棒は、目の前で死体もどきになっちまってるってことだ。
「ようチック。遅かったな」
「黙ってろ」
まだ喋る元気はあるらしい。つまらない気分で応える。こいつは決して相棒とは呼んでこない。雛鳥(chick)なんてしょうもないあだ名を使いやがる。
でも「相棒、」と声をかけてやればちゃんと答えが返ってくる。だから相棒。そのはずだ。
動揺を押し殺し、笑いかける。
「ひでぇザマだな、おい。誰にやられた?」
──人を殺して生きているんだ。いつ殺されたって構いやしないさ。
酸っぱい酒を飲みながら確かめるように言い合った、くだらない台詞がある。
それはどこまでも本当なはずなのに、どうしてだか俺は素直に笑うことが出来ない。あれ、と思う。戸惑ってしまう。こんな気持ちになるなんて聞いてない。そんなはずじゃない。
見透かしたように、蒼い瞳が歪んだ。
「分かってただろ。もういいんだ。お前との仕事は退屈しなかった」
相棒の目が閉じる。落ち着き払った唇の動きに、その一連の振る舞いにムカついてくる。なんで安らかなんだよ、こいつは。殴ってやろうかと近づいて、結局血みどろのシャツを齧るネズミを蹴とばした。尾を掴んで壁に叩きつけ、ゴキブリを踏み潰す。群がるハエに叫び、闇雲に腕を振る。
でも結局は、相棒が路地裏の所有物になるのを黙って受け容れるしかなかった。払ってもハエは諦めないし、ネズミを殺してもキリが無い。よく見りゃ蛆まで湧いている。小汚い虫がどんどん、集まってくる。
いっぱしの殺し屋としてそれなりにやれてると思ってた。なのに現実では畜生すら敵わない。
まったくイヤになる現実だ。しかも視ているのは俺だけ。目をあけろよと言外に、脇腹を小突いてもヤツは応えてくれない。
「誰にやられた?」
「……さあな」
「誰だよ」
「お前には関係ない」
「誰なんだよ、相棒」
焦れて大声を出すと奴は血を吐いた。どうやら笑おうとしたみたいだった。
青痣じみた唇の色に深紅の口紅がいやに鮮やか、胸がつかえる。
「さっさとわすれろ、チック」
めまいがした。
瞼の裏に遠い昔がフラッシュバックしてくる。
記憶のなかで父親は、玄関先で俺に猟銃を突きつけ「出ていけ」と告げている。怒りも懇願も通じず、無力なガキはその通りにするほかない。年若い父は裸の女の肩を抱いて家の奥に見えなくなる。
それから十年後。俺たちは父を殺した。その時にはもう、俺は独りじゃなかったのだ。
「こんな風にしたのはお前だろうが」
答えは無い。胸の動きが止まっている。
「やっぱり仇をとってくれ」だとか、最後に相棒と呼んでくれるとか、なにもなかった。お前なら大丈夫だと肩を叩かれることも、耳元で本当の名前を囁かれることもなかった。
劇的なものをなんにも遺さず、相棒は死んだ。
「……卑怯者」
「クソ野郎、バカ野郎、カス野郎、──くそ、もう思いつかねえ」
唾を吐く。乱暴に髪をかき混ぜる。顔を覆い、その場に蹲る。
すると両手の隙間から、さっきまで全く気にならなかった激烈な悪臭が意識を苛んできた。顔をしかめる。ここはもうお前の居ていい場所じゃない。あたかも、言外に冷徹な通告を受けたかのようだった。
「……」
それでも俺は、そこにいた。阿呆みたく、呆然と、どうしようもなく身体を麻痺させていた。
──わすれろ。
あいつはそれだけを言い遺し、他の何をも与えてはくれなかった。
だからきっと、俺は待ち続けてしまうのだろう。ついぞ得ることのできなかった、”相棒”の響きを。ずっと。ずっと。
顔をあげる。
かつて美しかった肢体に向かい、問いかける。
「忘れて欲しくなんかなかったんだろ。相棒」
返事は無かった。




